控え目なおっさん賛歌

韓国政府公式のYouTubeチャンネルの作品では、私はイム・グォンテク監督の『チャッコ(짝코)』(1980年)が好きかなと思う。

朝鮮戦争期に南北に分かれていがみ合った記憶が亡霊のように漂う70年代韓国。互いへの憎しみの記憶が繋ぐ二人の薄汚いおじさんの歪んだ絆は、いつしか奇妙な友愛に変わる。自分のことを最も憎み、自分の人生を壊した憎い張本人だけが自分の理解者となり、最期に傍にいてくれることになる。これでは愛と区別がつかない。「友達を作るのが下手」と言われるノンケの男同士だけが到達できる究極のラブストーリーなのかもなぁ…。

と、いうことで今回は『チャッコ』について書くのかと思わせといてこれはまさかの導入よ。何かと男性性が非難の俎上に上がりやすい中で、以下の動画で紹介されたアイデアには深く納得した。

ニュー・ダッド あたらしい時代のあたらしいおっさん
「おっさん=悪いもの、古いもの、いまの社会の悪しき土台を作ったもの」とされている今日この頃。ではいま、「おっさん」はどこへ

ジョソラジゲスト、木津毅氏の新刊『ニュー・ダッド』(また日本に帰ってから買いたい本が増えた)。遂に出て来た。男性性に絡むものが世界中で嫌われ、描かれる悪のほとんどを男性が吸収する映画が先進的だと言われる中で、特にゲイが好んで消費してきた男性性の表象はどうなって行くのだろうか。『マリッジ・ストーリー』のラストに出て来るニコールの恋人が一つの正解なのだろう。はっきり言って、誰を非難し、誰をどう讃えたらいいのかが分かりやすい映画のことは、人類はプロパガンダ映画と呼んで批判してきたはずだが、決して疑ってはならない物差しに従っている間は、それはいつでも諸手を挙げて称賛されるのである。そして、未来においてはまた非難される。その繰り返しである。

尚、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に明らかなように、既に、差別のきつい時代の田舎のゲイ男性だからと言って「被差別者」として観客に免罪されるべきかは揺れ始めている。『ブローク・バック・マウンテン』は終わったのである。

さて、私自身、この筆者と性的な興味の方向性はかなり近いと感じる。若干外専(しかも白人男性中心の)の中年兄貴への憧れが入ってる。私にとっては、『インディー・ジョーンズ2』のハリソン・フォードが最初の白人兄貴男性への目覚めだったので、まさに今、「進んでいる(Wokeな)」映画の中では悪役を割り振られるか、ジョークの対象にしなければならない男性像だ(一方で数多くのインド映画や『ジュラシックワールド』シリーズを見る限り、あの像は未だ健在)。同作の男女関係は、今の物差しで観ると結構引っかかりそうなシーンが多い。それに同作でのインド描写を考えると、カマラ・ハリスに意見を聞いてみたくなる(地雷)

一方、いささか古典的な男性像に振り切れているという要素は、80年代アクション映画の一つの面白さではある。今の基準で過去の世界=自分を診断したって自己否定にしかならない。また、同じ流れの中でシガーニー・ウィーヴァー=リプリーや、リンダ・ハミルトン=サラ・コナーという強烈な女性キャラが登場したことも忘れるべきではない…どちらも、のちには『タイタニック』のローズや『アバター』のネイティリを生み出すジェームズ・キャメロン作品であるので、他のキャラがいかに生き残れなかったかについて考えてしまう。

さて、男性の毒々しい攻撃的な要素が、ことにゲイの中ではある種の性的魅力につながっているということは、少し前から思ってた。そして実際昔は魅力的にも見えていた。が、実際のところ、ああいう種類の男性性の表出は私を子供の頃から苦しめてくれたあのようなオラついた優しくない態度によって私が外界から守られたという記憶なんぞ一ミリもない(アメリカ映画『ブラック・フォン』の行方がどうも不穏に感じるのは、このせいだろう。70年代末の殺伐とした社会の中で少年は男性的な毒々しい攻撃性だけを学習したことで「大人」になったようにも読めるからである)。

そういう男性なんてこの世から消えてよし。日本の電車の中で、おらつくじじぃとか、中学生女子を脅かす男とかを見ると(インドでこの種のダメな人を見たことはまだない)そう思うことも多い。しかし、そうした男性性を極端に否定しその持ち主を言動で排除し抑圧したところで、結局はモンスターになって帰って来るだけだというのは、既に『JOKER』という映画が言い当ててしまった。その後の模索の中で、今まさに必要とされる男性像として、筆者は「抜け感」のある中年男性の在り様を愛らしく描くという結論に達したのだと思う。男性を愛する男性、少し外れたところから男性性を愛するという変な立ち位置にいる男性だからこそ言えることがあるのだわと感心した。その描写の仕方自体は新しくはないが、そこに着地して、男性性というのは生き延びるのかもしれないね。私もそういう男性の方がいいと思う。自分はそうなれないだろうけどね!

私は、「今とても嫌われているもの」を切り取ったら人類は健全に進化できる、というカルト的ドグマを信じるわけにはいかない。文化は、いい部分と悪い部分(エマニュエル・トッドなら不合理な部分と言うだろう)が組み合わさっていて、不合理な悪い部分を切り離したらバランスがおかしくなるものなんじゃないかとも感じる。切り離すのなら、それに代わる何かを入れ込まないといけないんじゃないか、または、ひどく不合理にならないように調整するとかね、そういうこと試行錯誤している人はもういる(大体そういう人は守旧的な人からも、進歩主義的な人からも誤解され非難されがち。そしてご本人の心がけが立派過ぎて普通の人は結局付いていけないし理解もされにくい)。

でもその代わりに何を入れ込んだらいいんだろう?何を何様が「調整」できるというのだろう。また、「不合理なことは悪だから全部無き者にしなければならない」という信念(現実の徹底した拒否)に囚われた人の叫びはどうなるのだろう。それを『デモンズ2』のサリーの顛末に例えるのは悪くないと我ながら思うが、その発想は楽しくない。

どっかで線を引いて自分なりに考えなきゃいけないんだけども、なかなかこれが難しい。私はそういうのがひどく下手だ(だから現実の政治情勢については書けない)。同著は恐らく、男性らしい身体は残しつつも、中身はおっとりしてて知性のある、心の汚れの少ないおじさんを「ニュー・ダッド」として捉え、ソフトランディングを試みていると思う。

ところで心の汚れの少ない人っていうのは怖い部分もある。誰の心にだって影が差すことがあるのに、心が明るすぎる人って、その影を否定しようとする傾向がある。態度としてどう出て来るかと言えば、「黙る」「話をしなくなる」という態度を取ったり、或いは人によっては暴れたり、他人を必要以上に厳しく扱ったりする…ように思う。フォレスト・ガンプくらい自意識のない流され人生おじさんなら安心だ(だからジェニーも死出の旅で彼の元に還った)が、あれはファンタジー。だから…ニュー・ダッドは、心が若干薄暗い人か、自我の表出が分からない位薄い人の方がいいだろう。明るすぎて自分の影を受け入れない人は結局、他人を許容することが難しい。これは男性に限ったことではないが。こう言ってもいいか、自分を否定、拒否しない人。

現実を拒否するとき、あたかも自分の周りの世界を拒否して、自分だけがそこから切り離されたように考えがちなんだけど、世界を拒否するということは、そこに繋がっている自分の一部も拒否・否定すること。自分で矛盾を感じないように色々な形で自分の世界(結解)を構築しても綻びが…段々バランスが壊れて来るの…他人から見れば明らかなんだけども。ニュー・ダッドならば、きっと、自分の世界が崩壊することだって体験済だろうし、他人に優しくできるのだろうか。そうだったらいいなぁ。ホントね、ただ他人と自分に優しくなればいいだけなんだけどね。シンプルなこと。

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