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地震、事故、火事、ついに来たのか末法の時代

能登半島地震、羽田空港での事故、小倉の火事、その他にも2024年に入ってから立て続けに驚くようなことが起こった。

「時代がおかしいんじゃないか」という感覚は鎌倉時代にもあった。歴史は繰り返すということを考えると、今の時代を理解するために過去を振り返ってみることは役立つかもしれない。

そもそも、末法というのは仏教の教えが正しく伝わらなくなってしまう時代ということである。日本においては1052年(永承7年)からが末法になると考えられていた。二度にわたる元寇、内乱、地震、疫病、飢饉などの災害が多く発生した時代だったそう。コロナ過の記憶も新しい我々にとって、「世界で何か起きている」という感覚は共感できる。

末法の教科書的な知識は以下の通り。

末法(まっぽう)とは、仏教における歴史観で、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期、または仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期を指します。

末法思想とは、釈迦の教えと正しい行い・行いによる悟りの3つがある状態から、悟りがなくなり、次に正しい行いもなくなっていくという考えです。末法の世になると仏法がすたれて、修行しても悟り(成仏)を得ることができない時代になるとされています。

末法思想は、平安時代中期から流行した仏教の歴史観で、日本では1052年からその時代に入るとされました。鎌倉時代の日本において、人々は「いまが末法の世だ」という意識を持っていました。

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2023年の一年間ではAIがとてつもなく進化した。もはや我々の能力では太刀打ちできないというのは明確である。おそらくこれから一年間でますます進化し、今までの常識は大きく覆されるのは間違いない。
私たちの仕事も大きく変わり、「これから先、生きていけるんだろうか」という漠然とした不安を多くの人は抱えるようになった。

「末法」というのは仏教の教えがどのように伝わり、悟れる人がいるのかどうかという議論であるが、鎌倉時代にはちょうど時代が揺れ動いていたことから、時代の困難さと仏教の教えの伝えにくさが結びついたということだろう。(詳しい人がいたら教えてほしいです。)
今、鎌倉時代どころではなく、仏教を伝えるのが難しい時代になった。僕も僧侶として頑張りたいという思いはあるが、時代の揺れ動きを見ていると、自分や自分の家族のことを優先する頭が働く。親鸞聖人のように流罪になったとしても、命をかけてお念仏を守れるのかと言われると、まだ自信がない。

今、被災しておられる方、身近な人のいのちが急に奪われた方、テレビや新聞を目にして胸を痛めておられる方の心のなかには、「なんでこんなことが」という気持ちがあると思います。おそらく鎌倉時代の人々も同じ感覚で、「なんでこんなことが」と悶々としておられたことでしょう。
鎌倉仏教というのは、そんな人々の心に答える形ではじまり、広まっていきました。「末法だ」と感じる人にとって響く仏教。

これからの仏教の形がどうあるべきなのか、何が必要なのか、僕にはわからない。でも、それを本気で考えていかなきゃいけないということには気づきはじめている。どうやらこの数年で時代は大きく変化していきそうです。自分に必要なのは「覚悟」かもしれない。末法とも思えるこの時代にどう僧侶として生きていくのか考えよう。

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