見出し画像

「私はあなた」で「あなたは私」

カウンセリングをしていると不思議な感覚になることがある。いや、この「感覚」も少しずつ変化しているような気がする。

心理学を学び始めた時は、いわゆるカウンセリングの理論と実践をなぞることに必死だった。「共感する」ということ自体が難しかった。もともと「話す」ことや「聞く」ことは得意だという認識でカウンセラーを志したものの、いざカウンセリングという行為をしてみると、それが普段の会話と大きく違うのだということがだんだんと分かってきた。
自分が得意だと思っていた「話す」ことというのは、実に自分よがりのもので、目の前の人の理解を置き去りにしてきたことに気づいたときには、恥ずかしさやそれまでの自分が否定されたようななんとも言えない気持ちになった。

しばらくすると、だんだんと「共感」という感覚がつかめるようになってきた。「共感」がカウンセリングのなかで治療的にはたらくということが実感できるようになってきた。ぎこちなかった自分の応答がだんだん、自分らしい言葉でカウンセリングを進められるようになってきた。

仏教には「諸法無我」という教えがある。私たちはあらゆるものと繋がっている。繋がっていないと存在することができない。一人だけで存在するのではなく、すべてのものと繋がりのなかで、一時的に存在しているだけなので、本質的には無我であるということだ。

カウンセラーは一人ではカウンセラーになれない。クライエントという人が目の前に現れて、しかも対話に応じてくれないとカウンセラーとしての役割をとることはできない。クライエントには何かしらの悩みがあり、そしてそれを、誰かに聞いてもらったり、解決したいというニーズを持っていてもらう必要がある。

クライエントは部屋に入り、自分の状況を語り始める。すべての物語はそれぞれに違う。違っているけど、共通しているところもある。共通しているところは理論としてこれまで学んできた。目の前のクライエントがそれに当てはまるところと、当てはまらないところを探りながら話を進める。

「共感」というのは実に微妙なもので、どの言葉を選ぶのか、声の大きさやスピード、間の取り方で印象が変わってくる。大きな声で早く話すとクライエントは責められているように感じてしまうかもしれない。でもゆっくり小さな声で話すと、「自分の話がつまらない?」と感じるかもしれない。

ちょうどいい対話というのはクライエントによって異なるが、見逃してはならないのはカウンセラーの要因も大いにあることだ。そのクライエントと、そのカウンセラーだから、その言葉が生まれる。カウンセラーの見た目や雰囲気、クライエントに与える印象によって、クライエントが期待する言葉も違ってくる。クライエントはカウンセラーの顔色や体調をその時々の姿勢や言葉のニュアンスから感じ取っている。

意識しているかどうかは別として、人間というのは目の前の存在を「共感」して対話を進めていくというのはデフォルトの機能として備えている。カウンセラーはその機能をできるだけ高めているだけで、それが誰にもまねできない特殊能力という訳ではない。

するとある疑問が浮かんでくる。カウンセリングをしているのは誰か?カウンセラーとしては自分がカウンセリングをするつもりでトレーニングを積んで、今ここに座っている。しかし、クライエントと紡いできた言葉たちを冷静に眺めてみると、自分だけが生み出しているということはできない。二人で一緒に対話している。

そして、ときおり、クライエントの苦しみの姿のなかに、カウンセラー自身の苦しみが重なることがある。むやみに飲み込まれてしまっては専門家としては未熟であるが、重なる感覚を頭から否定するというのもまた誠実な態度ではない。クライエントの悩む姿から、カウンセラー自身が学び気づくということは本当によくある。

「私はあなた」であり、私自身もこれまでに家族や友人、恋愛、仕事、いろんな場面で悩みはあった。それは目の前に座っているクライエントと同じである。話を聞いているうちに、その絶望感や怒り、寂しさが自分のことのように感じる。共感と同情は違うものと頭では分かっていても、この両者は常に微妙なバランスで自分のなかに沸き起こる。クライエントに飲み込まれそうになる感覚は「私はあなた」と思わされながらも、自分のカウンセラーとしての意識をしっかりと保っていくという感覚である。
「あなたは私」であり、もしかすると、これから先、クライエントと同じような苦しみをカウンセラーが抱えるかもしれない。クライエントはその時に私がどう感じてどう行動すればいいのか事前に教えてくれているのかもしれない。映画や小説、漫画だって同じで、そこに出てくる登場人物の姿に何かを感じ、それは私の人生の糧になる。クライエントが教えてくれる人生は、私が経験するものではないけれど、私の人生の幅を確実に広げてくれている。

さて、何が言いたいのかよく分からなくなってきたので、この辺りでいったんは終わりにしよう。カウンセリングという営みと、仏教の教えというのは重なるところは多い。しかし、安易に重ねることのリスクや、そのせいで陳腐なものにしてしまうのは避けたいなと考えている。仏教と心理学は僕にとってはライフワークであり、これから長い時間をかけて、少しずつ言葉にしたいきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?