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note始めてみます。 〜自己紹介〜

初めまして。東京の大学2年生・たけるです。私は現在、大学生でありながらバドミントン選手として活動しています。そんな私の日常をみなさんとシェアできたらと思ってnoteを始めてみます。

投稿の主な内容は以下を考えています。(試行錯誤しながら色々挑戦してみたいと思います。)

  • 近況報告

  • 自分自身について

  • バドミントンについて

  • 海外遠征の記録

  • 旅行記

  • 便利な旅行ハック

今回ははじめての投稿ということで私の生い立ちから現在までを自己紹介のような形で書きたいと思います。

生い立ち 〜やんちゃな少年時代〜

私は千葉県西船橋市の病院で生まれました。長男で、下に弟がいます。食わず嫌いをせず、どんなものでも試してみる好奇心旺盛な性格だったようです。(今はどうかわかりませんが笑)

小学生時代 〜バスケに打ち込んだ4年間〜

小学生の時には両親の勧めもあり、水泳・そろばんを習っていました。小学3年生の頃からは地域のミニバスケットボールチームに入って小学校卒業まで毎週バスケを習っていました。スタメンではなく、途中交代で試合に出場しているような選手でした(笑)なぜか遠いところから放つシュートが大好きで、ミニバスのルールにおいてはスリーポイントが存在しないのにも関わらずずっとシュートしていました(笑)勉強面では、都内の某公立中高一貫校に学校見学に行ったときに校舎のシャンデリアに一目惚れをしてしまい、中学受検をしました。私が小学6年生に進級するくらいの時期に地元で集団塾が新規開講しました。年度末まで授業料無料を謳っていたので両親に頼み込んで塾通いが始まりました。そして受検をしたものの結果は不合格。地元の公立中学校に通うことになります。

中学生時代 〜人生の転機〜

中学校入学のタイミングでバスケを続けるか違う種目に挑戦するかの岐路に立ちます。私はバスケのボールがミニバスの5号球から中学校ではひと回り大きい7号球になると聞いて、手の小さな自分はすっかり怖気付いてしまったのと、バドミントン部の新歓がかっこよかったことでバドミントンを始めることにしました。私の通う中学校のバドミントン部は部員が40人ぐらいの規模の大きな部活だったので、初心者は夏休みが終わるまでほとんど体育館に入れてもらえず外で素振りをさせられる日々が続きます。そして、中一の2月に一年生大会に出場しました。結果は2回戦負けだったかと思います。緊張に弱すぎてほとんど何もできずに終わった記憶があります。
そして、部活以外では人生の転機となるオーストラリア海外派遣を経験しました。これは私の住んでいる自治体が毎年おこなっている事業で、自治体内の各中学校男女それぞれ一名が代表となり、しまい友好都市であるオーストラリアの某市に一週間の渡航をするというものです。現地ではホームステイをして文化交流を図りながら、日中は現地校に通い現地学生と一緒に授業を受けるというプログラムが組まれています。このオーストラリア渡航は私にとって初めての海外で、英語力は日本の中学生の平均ほど。初日が日曜日でプログラムの期間の中で唯一ホストファミリーと現地の観光が楽しめる日でした。他の派遣生たちが有名観光地や海へと繰り出す中、"What do you want to do today, Takeru?(今日は何をしたい?)"と聞かれた私は緊張のあまり、"I'm thirsty. I want to drink apple juice.(喉が乾いているのでリンゴジュースが飲みたい。)"と答えてしまい終日スーパーに行くだけで終わってしまいました(笑)←実話です。
そして夕方からはホストファミリーの長男Kevin(仮名)と一緒に近所の公園でバスケをすることになります。近所の公園といってもオーストラリアは広大な国。片道歩きで30分ほどかかります。その道中で私はKevinからの質問攻めに遭ってしまいます。「日本ってどんな国?」「たけるの住んでる街は小さいの?何が有名?」「日本ってオーストラリアからどうやっていけるのかな?」「何時間ぐらいかかる?」「たけるの弟はどんな人?何をやってるの?」冗談抜きで100個を超えるほどの質問、しかも訛りの強いオーストラリア英語。私はただただ "I'm sorry. I don't know. I don't understand.(ごめん。わからない。理解できない。)”と繰り返すことしかできませんでした。それに対してKevinは "I'm sorry. But I wanna know about you and your culture.(ごめん、だけど君自身のこととか君の文化について知りたいんだ。)"と言ってくれていました。その夜、ホストファミリーにおやすみを言って自室にもどた私はベットに顔を押し付けて声を堪えながら泣いてしまいました。決してホームシックになったわけではなく、ただただ自分の英語力のなさに失望したのと、自分が理解できないのが悪いのに相手に謝らせてしまったことに申し訳なくて泣いてしまいました。この涙がきっかけで英語学習のモチベーションは一気に最高潮に。必ずKevinに再会して自分の言葉で会話をしたいと思う一心で帰国後は英語を学び続けました。

中3で行ったオーストラリア・ブリスベン市の動物園にて

高校時代 〜東京の大都会と豪州の田舎町で過ごした3年間〜

高校は都立新宿高校に入学しました。新宿高校はバドミントン部の活動が盛んであり、進学実績が良かったので将来的に選択肢を増やしておきたかった私は文武両道に力を注げそうな新宿高校を選びました。しかし入学すると早くも私の想像とのギャップが…。在校生は全員勉強がきちんとできる…!というか勉強自体が好きそうに見える…!「あれ……。」私はこのギャップに苦しみます。勉強は科目による好き嫌いがあった私。英語は好きだし得意。しかし数学はその真逆で中学でも一度躓き、苦手意識はあるし、好きでもない。高校受験でさえも、英語と国語で大量に得点を稼いで数学の大失点を補うイメージで乗り越えてきた私は、定期テストの度に苦しみます。どうしても毎回のテストの成績は10点代。数学の学年順位はいつも後ろから数えて3番目ぐらい。(学年350人ぐらいだったかと思います。)

0点を取ってしまった数学のテスト

それでも授業は欠かさずに出席して課題もやって必死に尻にかじりつくイメージで勉強していました。そんな中、都立高校に通う高校生を対象として、東京都教育委員会が実施している長期留学プログラム「次世代リーダー育成道場」に応募することになります。この制度は、自己負担額80万円(年収や家族構成などによって最大80万円の減免措置あり)で10ヶ月の長期留学に行けるというもの。現地への渡航費・食費・電気ガス・現地校に通う学費・サポートのかかる費用・ホストファミリーへの手当が全て込みになっていて、費用のほとんどを東京都が支援してくださるというものです。現地校で取得した単位は日本の高校の単位へと書き換えができるため日本の高校2年間+海外の高校1年間で卒業が可能です。
定員100名(オーストラリアまたはニュージランドへ留学する一月出発のコース)に対して、応募者は例年多数で研修生となるためには選考があります。一次選考(書類選考)二次選考(英語筆記試験)三次選考(面接 日本語・英語)によって選考されます。選考の結果合格をいただくことができ、高一の一月から高二の十一月までオーストラリア・アデレード市への留学を経験しました。(留学中についての詳しいことは別の投稿でまとめようと思います。)
そして、帰国後は元の学年(高二)へと復学し、大学受験へと挑みました。

大学受験(現役) 〜歯がゆい思いをした1年間〜

私の第一志望校は東京外国語大学国際社会学部東アジア地域専攻(中国語)。2019年の年末にかけて行われた香港での当防犯条例に反対するデモの報道を見て、言論の自由や集会の自由が侵されることに危機感を覚え、地域同士・国家同士ではなく国際社会として包括的に解決する姿勢を保つためには何が必要なのかを研究したくて、同大学を目指しました。しかし、日々の勉強習慣が全くと言っていいほど存在しなかった私は、長期留学で1年間分遅れた科目の勉強を達成できないまま本番を迎えてしまいました。結果的に共通テストは失敗してしまいました。そして、二次試験で逆転の可能性があったにも関わらず、共通テスト不振の反動で勉強に手がつかず、家のソファーで「無理だー」と丸まってしまうほど。二次試験も受験したものの、結果は不合格。本当に両親には申し訳ないことをしてしまいました。結局、合格をもらっていた青山学院大学国際政治経済学部国際コミュニケーション学科への入学を決めます。

大学受験(浪人) 〜華やか青学ライフと仮面浪人〜

青山学院大学に入学する前は世間的なイメージ、というか個人的な偏見だったのかもしれませんが何となく「自分じゃついていけなさそう」という偏見がありました。オシャレに気を使ったこともなければ、高校3年は部活のジャージで高校があった新宿に通い詰めていたほど。だからこそ、不安で仕方がありませんでした。青学に入学するからにはきちんと勉強がしたいし、両親からは口すっぱく「大学は勉強が好きな人が行くところ。勉強が嫌いなら行くな。」と言われ続けていたことから未知への不安がありました。ただ、東京外大への夢も捨てきれていませんでした。「香港の研究がしたいけど、青学では香港を専門とする教授がいない…。」そんな思いがずっと残っていました。そこで、仮面浪人を決意します。仮面浪人に係るすべての費用は自分で払うと宣言して両親に頼みました。その結果青学の入学式よりも前の段階で仮面浪人をすることを決めました。
入学式を終えて大学生活が始まるとそこは青学。おしゃれな人が多く、毎朝タクシー通学をする学生も僅かながら存在しています。国際政経の学生は思いのほか落ち着いていて(?)私の歪んだ偏見の真反対とも言える、真面目な学生ばかりでした。授業中はグループワークに熱心に取り組み、議論も活発。また、国際コミュニケーション学科は海外にルーツを持っていたり、海外生活を長く経験していたりする学生がとても多いため、英語ができる生徒が多かったです。毎回の授業が新鮮で刺激的でした。興味深い授業がとにかく多くて、毎日が充実していました。放課後には仲の良い友人とサウナに行って整ったり、ご飯を食べに行ったり、旅行をしたりと申し分のない華やかな大学生活を送ります。そのため9月ごろまで受験勉強には全くと言っていいほど手をつけられず、すっかり青学国際政経の虜になってしまった私は青学が大好きになっていました。

同期と行った宮古島旅行

それでも香港について学びたいという気持ちは自分の中に確実に存在していました。そして大学の後期が始まる辺りから本格的に受験勉強を開始させます。(遅い笑)
大学の授業は妥協したくなかったため、前期後期合わせて40単位を一つも落とすことなく取り切りました。

青学前期の成績表 政治学原論が難しすぎて苦戦した。

これは仮に仮面浪人が失敗した際に問題なく青学2年生に進級して後々派遣留学をしたかったためです。そこで、授業と授業の間の空きコマは毎回図書館にこもって勉強していました。帰宅後も自室で勉強。平日の1日あたりの勉強時間は短くて5時間、長くて8時間ぐらいでした。休日も勉強。スタサプを使って勉強していました。

仮面浪人中にずっとモチベーションを保ってくれた東京外大倉田教授の著書

日本史の伊藤賀一先生の大ファンになり、夢中で授業を受けていました。英語に関しては、東京外大二次試験で2時間半に及ぶ試験があるため、東大・京大・一橋・旧帝・早慶(文理問わず)の過去問をひっきりなしに解いていました。
そして迎えた共通テスト本番。そして、数学1Aの試験で14点を叩き出してしまったことを皮切りに大失敗。総得点では現役の方が良かったという状況に。もちろん志望校判定はE判定。

E判定(n回目)

しかし、私の後ろには大好きな青学とそこで取った40単位がついています。怖気付くことなく第一志望でE判定だった国際社会学部東アジア専攻(中国語)に出願します。そしてそこからは毎日英語漬けの日々。ひたすら長文読解を解きまくっていました。まさに血眼で(笑)そして、迎えた試験本番。手応えは良い。結果を待つのみ。結果が出た。受かった…。という流れです。スマホに表示された
「合格おめでとうございます。あなたの配属地域/配属言語は東アジア/朝鮮語です。」
の文字。いや、待てよ。「朝鮮語?!」物事がすべてうまく行くなんてこと私の人生で一度もありませんでした。また一波来そうです……。

(仮面浪人時代に勉強記録を残していたインスタグラムのアカウントです↓)

東京外大の国際社会学部では一つの地域に専攻語が2つある場合がある。東アジア地域専攻の場合は中国語か朝鮮語。それぞれ第一志望/第二志望を出して入試得点が高い順に希望の言語に配属される。合格圏に届いていても希望言語が埋まってしまっている場合は希望は叶わず、それ以降の変更は一切できない。

大学一年生(2回目) 〜憧れの東京外大〜

東京外大の入学式当日。清々しい気持ちで大学に向かいました。すべての景色が明るく見えて、これから始まる4年間に心を躍らせていました。そして大学の授業がスタート。青学で取得した40単位のうち24単位を東京外大の単位に書き換えることができて、周りの一年生よりも少ない授業数で済みました。ここでも青学時代にたくさん授業とっておいて良かったなと感じました。

青学で取得した単位を東京外大の開講科目のものに書き換えてもらった結果。24/40単位が認められた。

その一方で、これまで全く関心のなかった朝鮮語の授業がスタートしました。月火水木金。毎日対面の授業が設定されており、同じクラスで学ぶ周りの学生は朝鮮語が第一志望の人が大半で、高校生の時からKPOPなどを通じて基礎を学んでいたという学生が多かったです。それに対して私は初心者。一応外大のカリキュラムは初心者からでも学べるように設定されているものの、学生の理解スピードが速いため超特急で授業が進みます。高校までは成績を決める基準として、テストの成績・課題の提出状況・授業の出席率が設けられていたため、なかなか授業について行くことができなかった私はやる気だけはあったためすべての授業に出席し真面目に授業を受けます。しかし、語学は反復学習が大切ですが、関心がないため勉強する気になれず…。私の机の上に自分で置いた教科書の表紙にある「朝鮮語」の文字を見るたびに「なんで外大に来たんだっけ。中国語を学んでゆくゆくは香港を勉強するためだよな。」と感じるようになっていきました。そして、一年生が終わり、成績発表当日。部活の途中に発表時間の午前10時を迎えたため休憩時間で確認すると「朝鮮語1:F」の文字が…。「F」すなわち大学では単位の取得不可"Failed"のFです。

1番大切な専攻語の単位を落としてしまう

落単したことに一ヶ月間ずっと落胆しました。東京外大では言語によって多少ルールは異なりますが、いわゆるメジャーな言語(英語・中国語・朝鮮語・スペイン語・ドイツ語・フランス語などなど)は一年生と二年生で規定の単位数を満たないと三年生に進級できず留年になります。(一年生から二年生へは上がることができる。)そして一年生の専攻語は前期・後期という分け方ではなくて、1年間トータルで成績が出て、月火水木金の五コマの平均で成績が決まります。私は基準にあと3点足らず単位を落とし、二年生終了後の留年が確定しました。一年生の朝鮮語の単位を取れなかった私は学年は二年生に上がることができるものの、専攻後の授業だけは再履修となり一年生の授業をもう一度受けなければなりません。

大学一年生(3回目) 〜後がない外大2年目〜

一年生で単位を落としてしまった大きな要因は、学習に対する姿勢にあったと考えています。ただ、2022年10月に行った2週間の海外遠征も一つの要因だと考えました。東京外大の夏休みは7月中旬から9月末までとかなり長いのですが、10月から朝鮮語の内容が一気に難しくなります。尊敬形を習い、より様々な状況において会話する力を磨きます。その重要な10月の初めの2週間を海外遠征で公欠してしまい、学習に遅れが出てしまいました。その遅れを帰国後も取り返すことができず、去年は留年してしまいました。その失敗を活かして2023年の海外遠征を組みました。2022年と同じく10月に予定していた遠征は取りやめ、なるべく大学が休みの期間に海外を回れるようにしました。その結果、基礎がしっかり定着し、10月以降の授業でもしっかりと毎授業の内容を自分のものにすることができました。成績発表日はまだ先ですが、手応えは感じています。

<2/9追記>
↑無事専攻語の単位を取得し、2年生へ進級します!💦

ここまで自分について書いてきました。長くなりましたが読んでいただきありがとうございます。

この先は私の海外での活動についての投稿がメインになるかと思います。興味を持っていただければ読んでいただけると嬉しいです。

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