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養老孟子さんの「死の壁」を読んで。

おはようございます(^▽^)/

電車の中で吊り輪の間隔が狭くて隣の人の肩が当たってイライラいている人は体の向きが間違っていてあれは窓を向いて吊り輪をもつのではなく進行方向に体を向けるために作られているんだということを知ってびっくりしているタケマンです。

今日は、養老孟司さんの「死の壁」という本を読んでの感想を書きたいと思います。

養老さんは、小学校の時に終戦を迎え東京大学進学して東京大学の研究室の助手となり全闘争を経験している方であり、様々な時代の変化の中で生きて世の中の常識もめまぐるしく変化してきた中で絶対的なものを手に入れたくなったということで解剖学を専攻していました。

そんな死体というものと常に向き合ってきた養老さんが考える死というものは非常に面白かったのでその要約を少ししたいと思います。

本日は、3つのことについて書いていこうと思います。
1、 死んだらどうなるかなんて考えない方が良い
2、 臓器提供をしたくないというのに清めの塩をするのはなぜか
3、 エリートは常に責任と闘っている。

1、 死んだらどうなるかなんて考えない方が良い。

よく、自分が死んだらどうなるのだろうと考える人がいるがそれは全く無意味であり、死んだら、自分がなにを考えているのか分からないというのが答えだろう。
だから私たちが大切にしないといけないのは二人称や三人称の人たちであると思います。つまり残された人達のことを良く考えるということにつながるのでしょう。
しかし、なぜ人は人を簡単に殺めてしまうのかというとそれ壊すことは簡単だがもう一度組み立てることは難しいということを本気で考えていないからでしょう。
だから、蚊であったり蛾というものを簡単に殺すことができるのだと思います。それがしっかりと理解出来ていないから憲法というものが出来て法律というものができたのだと思います。

2.臓器提供を拒むのに清めの塩をするのはなぜか。

 私も、臓器提供をすることについて嫌だと思ったことはないのですが養老さんの考え方は深すぎたので紹介したいと思います。

元々、人間というものは中国ではジンカンと読まれていて世間のことを表していた。

しかし、日本では人間というものを人として扱ううようになっていった。
だから、世間=人間という考えかたが広まっていったのだと思う。

つまり、世間からそれた人間はすでに人間では無くなるという考え方を思っているのだろう。だから、清めの塩というものがあったり戒名というものが存在するのだなと思っています。

しかし、死んだ人を人間としてみなしていないにも関わらず臓器提は拒むのだろうか。それは自分が実際と行っていることと考えていることのギャップに気づいていないからだろう。

3.エリートは常に責任と闘っている。

皆さんは、国会議員であったり首相そして親というものになりたいと思いますか?

私は自ら進んで手を挙げることはできないと思います。

なぜなら、人の上に立つ人間にはその下のものを犠牲にしうる立場にいることを知っておかなければいけないからである。

かなり極端な例かもしれませんが太平洋戦争を起こした東条英機のように自分の判断によって多くの犠牲者が出たということが実際にありました。

また、安楽死をさせる医師、死刑執行をさせる医師などエリートというのは一種の汚れた仕事を受ける立場だった。

このようにエリートとというものには責任という言葉が普通の人よりも重くのしかかっていたということも頭に入れておかなければいけないことなのかと思う。

 最後に、人間というものは致死率100%です。だから、死というものは忌むべきものではなく、人生の中で経験せざるを得ないことなのです。

つまり、死というものは不幸なことだけれども、人の死というもの生かせる生き方をしてその死を出来る限り不幸にしないことが私たちの課題なのではないのかと思う。

本当の最後ですが、アウシュビッツ強制収容所に入れられた時のフランクルの言葉を紹介しよと思います。

「もう回復の見込みがなく、寝たきりになっている患者が自分の生きる意味に疑問を持った。その時フランクルはその人がそういう運命を自分で受け入れて、それに対してどのような態度を取るのかということが、周囲に大きな影響を与える。それが生きる意味である。」

今日も最後まで見て下さりありがとうございました。

今日も最高の一日にしましょう!!

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