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2023年11月7日(火) 吉野翼企画公演「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」


前期の朝ドラ「らんまん」を見ながらドラマのモデル牧野富太郎の自伝をKindleで読むということをしている。創作と事実(と牧野自身が言っている事)の差異にも注目できて楽しい。ドラマの物語は終盤。神木隆之介もフケメイクしていい感じ。

夜は江戸川橋「絵空箱」で開催の芝居、吉野翼企画公演「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」を観劇。


寺山修司を一時期追っていた身として、前回の吉野翼企画「田園に死す」がとても良かったので、この公演は音楽担当のなすひろしから聞いた時点で行くことに決まっていた。
吉野翼、寺山修司、岸田理生による3つの戯曲が一本の線で繋いだ作品というのが僕の見方。戦争の話からはじまり観客論で終わる。安易な戦争反対を叫ぶのではなく、哲学的な問を観客に与え、観客は演者から要請される「マッチを擦る」という行為を繰り返すことで演劇の一部に取り込まれる。ゆらゆらと光る熱いマッチの炎は時に演者のような気になり、時に舞台と観客席を隔絶し、そしてしばしば「のぞき見」の背徳感やエロスを喚起させた。
手元の火はある種の陶酔感をもたらす。
舞踏とみづうみの音楽で演じられた第二部はマッチの火と共に冒頭の朗読の言葉が何度もうかび、ぼくは心のなかで問いを繰り返していた。
そして3部ではそれらの演劇行為を演劇で批評してしまうというアクロバティックで感動的なラストを迎える。観客は観客という名の演者としてその場を去ることでしか芝居を終わらすことが出来ない。みづうみが演奏していたが、最後まで聴くのではなくそれに送られて帰るというのがこの演劇の本当のクライマックスなのだ。

すっかり吉野翼企画に魅了された。というかリアルタイムで体験できなかった寺山修司の演劇とはまさにこういう事だったのだろう。寺山映画にハマった時には寺山はすでに故人だった。映画で受けた感覚を吉野翼はしっかりと現代に蘇らせてそして繋いでいくという覚悟さえ感じた。

これからも吉野翼を追っていきたい。

江戸川橋から池袋まで歩きながらとりとめもない観劇の感想を語ったツイキャスはこちら。

追記
上演直前にX JAPANのHEATHさんが亡くなったという報があり、かなり驚いた。今年は僕が触れてきた音楽を作った人たちが多く亡くなってとても寂しい。それととともに僕もこうしていつか訪れる死に向かって生きているんだということを再認識した。

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