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概念的自傷行為

ふと、絶望することがある。
絶望を大きな黒い雲のようにして頭の中に放っておくと、無抵抗のまま喰われてしまうから、文字にして対峙して冷静になるために、真っ暗闇を可能な限り出力してみる。

以下、とても暗いです。



生きているだけで偉い、と、とても思えない。
悲しいね。

自分で世界を生きにくい場所にしてしまっていることは分かってる。
「生きにくい世界を一生懸命生きているワタシ」ではなく「世界を一生懸命生きにくいように生成しているワタシ」なのだ。


神経質で警戒心が強い。
人間関係には臆病で潔癖だけど、社会性のある人間でいたいというプライドが高い。だから無理をする、いつも。

周りから見て大丈夫な人間でありたいという気持ちが強すぎる。
そしてこの異常なまでの普通への執着が、精神疾患を引き寄せたのか精神疾患を見ないふりしてきたのか、もはや鶏が先か卵が先か論争と同じ。

精神疾患が先か、異常思考が先か。


三週間ぶりの通院で主治医から「今の元気は何パーセント?」と聞かれた。難しい質問すぎてピンとこなかったので「今も波があるし、しんどい時もあれば元気かなと思う時もある…感じ…です…」と答えたら「じゃあ80パーセントだね」と判断された。判定ガバガバでは!?と思ったけど、そもそも精神疾患を患うような人間の元気の100パーセントなんて、思い描くようなキラキラニコニコ発光しているような元気とは程遠いのだから、私はこんなに元気がないけど、普通に80パーセントなのかもしれない。

普通への執着は今でも強いけど、社会性のある人間でいたいというプライドは若干薄れた、というか諦めかけている。それが思い込みだと気付いたから。万人に好かれていた方が楽だと思っていたけど、万人から好かれるのはかなりキツい。社会性を捨てたいとはもちろん思わないけど、過剰に社会性を保持し続けることのメリットのなさを、大人になるにつれて学んだ。

友達は少ない方がいい。
という日本語は正確ではなくて、自分の弱さを晒すことを恥じなくて済む他者は限定させておいた方がいい、が今の私の言語化の限界。

悲しいことに、昔一緒に笑い合えた友達と同じことで笑えなくなっていくようになる。生きながら受ける摩擦の差が、大人になるほど広がっていくから。心の摩耗度も耐久性も揃わなくなっていって、同じものに痛みを感じていたのに、いつしか私だけが痛がっているという瞬間が訪れる。
そして、その友達と一緒にいる時間が、次第に私にとっての”摩擦”になっていってしまうんだ。


このところ、自分の気力を頼りに生きていくということの限界を感じているんだけど、それに伴い摩擦が日に日に大きくなっている実感がある。
摩擦を感じずに生きられる時間が少なくなって、摩耗が進んでしまうのが怖い。自分で自分を守れない。

自分一人で勝手に生きにくい世界を生成して、自分を擦り減らすという、概念的自傷行為が日常になっている。

それがやめられなくて止められなくて、そもそもそんな自覚はなくて。もう自分じゃ自分を擦り減らすことしかできないんじゃないかと、目の前が真っ暗になって涙も出ない夜もある。


ちっとも前向きになれなくて、音楽も聴けなくて本も読めなくて映画もドラマも見れなくて、ただ情報が永遠に更新されるタイムラインを眺めながら時間が過ぎていくことを待つことしかできない。
そうやって何も自分から感性や感情を発動させなければ、これ以上何かを擦り減らすこともないという自衛のように見えて、余計に虚無感を煽る自傷行為なんだきっとこれも。


誰かに守られたいと、いつの間にか他者に救いを求めてしまう。
もう自分を救えない気がするから。
でも他者に自分を委ねられるほど、私は優しい世界を作れていないのかもしれない。

明日はきっともっと良い日になると、目を輝かすことができたらいいのに。
私の黒目も白目もとっくに曇り硝子のようになってしまった。

何でもいい。私に生きる意味が、自分を守ってあげられる理由が、天から降ってくるなんてそんな高望みはしないので、せめて足元にポツンと転がっていたらいいのにと、今日も地面を見ながら歩いてしまう。


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