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準備。

決して閏年だったからという単純で些細な理由ではなく、この2月は本当に色々なことあって、新しいことと懐かしいことがごちゃ混ぜに押し寄せてきた 長くあっという間な毎日であった。

ここ最近はひたすら準備準備準備な毎日で、それは同時に初心にかえりやすい貴重な期間でもある。
その合間に、大好きなとある人たちと向かい合って食事をする機会があった。

竹内くんは演出できる?』
唐突に発せられた鋭い質問に、思わず息が詰まる。
今の自分に、何が足りないと思う?』
この問いには即答できる……つもりだった。
でも的確に言える表現が見つからなくて、しばらく脳内を独りぐるぐる回っているうちに、
結局その間(ま)なんだよ』
とツッコミか入る。即答でできない問いなら、やっぱりわかっていないのと一緒なのだ。



今の仕事を始めて5年は経つが、未だにわからないことがある。
その一つが、「芝居」だ。

僕は「芝居」という言葉が嫌いだ。
よく監督が、役者にこう言う。
「俺らは芝居を撮ってるんだから」
「こういう芝居をしてほしい」
「芝居がわかってない」
 こういう表現が使われているのを見るたびに、ああ自分のことだなと思い続けてきた。別に僕は役者ではないけど。
なんで「芝居」という言葉に毎回虫唾が走る思いをするのか。本当によくわからなかった。



『竹内くんはさ、どういう演出がしたいの?』
短い言葉で、本質を貫くような質問が次々と浴びせられてくる。
でもこの質問にはすぐ答えることができた。
分かっていたからだ。
「理由をちゃんと描きたいんです。ただ怒る。ただ戦うんじゃなくて、なんでここでこういう感情なのか。なんでここで拳を固めて、なんで最後にキックでトドメを指すのか。その理由に説得力というか、そこに納得性を持たせたいんです。じゃないと、いくら架空の物語とはいえ、感情移入ができないんです」
……みたいなことを言った。
 その瞬間、ちょっと「芝居」に対する自分なりの答えが見えた気がした。
自分が「芝居」という言葉に抵抗があるのは、きっとその言葉から「ウソっぽさ」を過剰なまでに感じているからだ。
「芝居がかった演技」とか「芝居くさい」みたいな表現があるように「芝居」という言葉に対する印象がもともと良くない。 "芝に居る"と書くように、どこでも誰でも即興でできそうな手軽で馴染みやすい印象はあるが、まるで添加物にまみれた、安っぽさみたいなものをそこには感じていた。
 逆に"演じる技"と書く「演技」という方が、少なくとも自分の性に合ってる気がする。 それは言い換えれば、"演出する技"――自分の領域にも通じるものがあると勝手に思っているからだ。
何かを演出し誰かにものを見せるためには、そこに少なからずのテクニックがないといけない。見せているものは虚構のものであっても、どこか論理的で、ちゃんとした納得性を伴うものを追求したい。

と、思っている。

『演出する、ってどうすることだと思う?』
そう聞かれた自分はちょっと考えて、
お芝居を演技に変えることです』
……みたいなことを言おうとしたが、流石にちょっと難しく考え過ぎてるな、と思い声にはしなかった。
 その人はだいぶ呑んでいた。でもその凛々しい目線は普段と同じか、それ以上だった。
『導くことだよ』
『えっ?』

『自分の頭の中のイメージを形にするために、いろんな人たちを導いていくことだと思う』
なるほど。このテの話をする上で今までありそうで出て来なかったワードだ。

導く。

そうだ。今までいろんな場面で、いろんなひとに、いろんな手段て伝え、表現し、いろんなものをいろんな形で導いてきた。そして逆に、導かれもしてきた。
今繰り返している準備作業のあれこれも、本質はそこにあるじゃないか。
「芝居」なんかわかっていなくていい。分かりたくもない。でも自分はちゃんと自分のビジョンを知っていて、そこに導くための技を磨くことが重要なんだ。

『竹内くんはいつ監督になるの? ほら、言うのは自由だから』
自分はよく冗談を言うが、嘘くさい嘘は基本的に嫌いだ。
照れはあったが、そこに深い理由は本当になく、ただ、
2年』
とだけ溢しておいた。

店を2軒ハシゴし、6時間もいろんなひとと語らいあった、貴重な夜であった。
準備期間はこういうこともできるから面白い。



僕らが普段作っているのは所詮文化祭の出し物みたいなものだ。
でも本当に面白くて楽しいのは、文化祭当日ではなく、その前日までの、準備期間なのだ。

冬は既に終わっていて、春は確かに始まっている。

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