僕もあなたも努力して生きている
「努力してないよね」と言われて「全然してない、努力できる人尊敬する」なんて笑いながら返した先日。
なぜ努力してないんだろうと、ふと思う。そもそも、「努力」とは何だろか。努力について、少し考えてみることにする。
国語辞典によれば、こういう意味だ。
言葉の意味をみると、改めて、「努力」の要素がみえてくる。
・あることを成し遂げるためであり、先に成し遂げたいことがある
・休んだり怠けたりすることなく、継続して続ける必要がある。
これが僕が努力できない理由な気がする。
つまりは、
・「成し遂げたいこと」=目標がない、ということ
・継続して続けることが苦手ということ
この二つが、僕を努力から遠ざけている理由だ。
思い返してみる。
「努力」したことはあっただろうか。
あえていえば、大学受験は努力したと言えるかもしれない。志望校に受かるという目標があり、継続して勉強していた。
でもそれ以外では何か、と考えると、浮かんでこない寂しさ。
努力がどうにも苦手なようだ。
でも、と思う。はたして本当にそうだろうか。
僕は努力していないのだろうか。
たとえば、楽しく生きたいということを「成し遂げたいこと」と言ってしまえば、どうだろう。
僕は楽しく生きるために、ミュージカル映画を観て、流行りの音楽を聴いて、カフェでプリンを食べている。絶賛継続中だ。これは努力といえないのか。
楽しく生きたい、というのが大きすぎるということであれば、たとえばこれはどうか。
麻雀がうまくなりたい、と思って、麻雀ゲームをやり麻雀配信をみる。これは努力といえないだろうか。
屁理屈のようだけど、ぼくの結論は、「努力といえる」だ。
努力というと、歯を食いしばって、嫌なことでも我慢して続ける、というイメージがあるけれど、楽しく前に進むことも努力と言えるんじゃないか。
よしよし、結論がでたぞ、と思って安心したところで、さらに思考が広がってきた。
先日考えた「伏線を張る」やジョブズの「connecting the dots」の考えと繋げることができるのではないか。
ジョブズは卒業生に贈ったスピーチで、大学で興味があって学んだカリグラフィーが、Macのフォントに影響したと言っていた。
そのジョブズのカリグラフィーを学んだ行為は、努力といえるのだろうか。
学んでいた時は、この学びで何かを成し遂げたいとは思っていない。でもそれが、点と点がつながり、未来の成し遂げたいことに影響力された。
そのジョブズの考えの視点に立てば、あらゆることは、未来へと繋がって、未来への投資になりうる。伏線を張って生きている。
そう考えれば、全ての行為は、「未来に向けた努力」ともいえるんじゃないだろうか。
人はみな、努力家なんじゃないだろうか。
生きて何かをするということは、未来に向けて一歩を踏み出していることであり、努力をしているといえるのかもしれない。
そう考えれば、僕はもちろん努力家だ。努力が苦手だと思ってたけどそんなことはない。
楽しく人生を送ることに努力してるし、未来に向かって伏線を張っている。
自分は努力家というパラダイムシフトが、僕の人生を少しでもいい方向に進めたら、それは嬉しいな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?