マスケラを狩る者〈第六章〉置屋

俺達は旦過マーケットを出ると、紫川に注ぐ支流の神嶽川沿いに歩いた。川幅も狭く、このあたりは寺社ばかりで沿道は暗い。
「白 眞一(ぺく ジンイル)の家は馬借町です」
「金 愛淑(キム エスク)もおると話が早いんですがね」
「しかし、なんで白は今日マーケットに来んかった?」
悪い予感がした。

まさか白がマスケラなのでは……だから昨日は俺の前ではとぼけてみせて、逃亡を図った可能性もある。

「岡勢、伊堂寺」
ふいに燈乃が口を開いた。

「なんね?」
「お二人には話しておかなくてはならないことがります。そうですよね?高梨公平」
そうだ……たしかに。何も知らないままこの二人をマスケラと対峙させるのは危険だ。

俺は今まで誰にも話していなかった五年前のことを二人に話し始めた。
この暗い川沿いなら、五年前の暗くて苦い出来事を信じてもらえるような気がしたからだ。なによりも橙色の不思議な少女が話をしろと促したのだ。


「……なんちゅうか……」
「信じられん……五年前からあんたたちは知り合いやったとか?」

「それだけじゃありません。燈乃は……信じられないかもしれませんが、国分春子の産道を通って現れたんです」
「さ、産道ぉ?」
「そうです。国分春子は、俺のいた壕に逃げ込んできた民間人の一人でした……そのとき……身ごもってました。俺は、だから彼女を生かして壕から出してやりたい……そう願ったんです」
「わたしは、その国分春子という人の胎児と産道を使って、この世に現れました」

「それは……」
「春子は……そげなこといっちょん話しよらんやったですよ」
「国分春子の記憶は、宿した子の十数年分の生命力と引き換えになったのです」

「ちょお待ってん……そしたら嬢ちゃんは、春子の子供っちゅうことになりゃせんね?」
 
そう言うと岡勢は燈乃の頬を、分厚い手で包むと愛おしそうにさすった。
燈乃は何も言わず、ただ岡勢の顔を見返すだけだった。

「しかし……公平。説明の通りやとしたら、この連続殺人事件は……」
「はい、俺は五年前、燈乃と出会った時からつながっていると考えます」
「けど燈乃嬢ちゃんが、その鈴井さんっちゅうマスケラを狩ったんやろ?そこで終わっとるんやないんですか?」

「ますけらはじゅうしゃだ」
 

甲高い声がした。
俺が手に持っていたコートの中から、カロンが首を出した。
「あのせんそうでたくさんのますけらがうまれた」

「うお!なんちゃこれ」
「高梨さん、あんたぁ腹話術を使うんですか?」
「残念だけど、こいつはカロン。喋る獺だ」
「しゃべるだけじゃないぞ」
燈乃が少し眉をひそめたように見えた。
「カロンの言うことは気にしないでください。それからマスケラを狩るのはわたしの職務です。みなさんは、マスケラを見つけるお手伝いをしてくだされば、それで充分です」

燈乃は脇に抱えていた松葉杖を、ぶんとつま先に向けて振り下ろした。
「お……おお!奇術を見とるとやろか……?」
「そ、それは真剣か?」
すると松葉杖は、最初に俺が見たときと同じ朱色の鞘の真剣に戻った。
「こいつはこれでますけらをかる」
燈乃は黙って剣を抜き、二人の男の前に差し出した。
「二人とも俺の真似をしてみてください」
俺が燈乃の剣の切っ先に触れると、二人とも目を丸くした。

「剣が……透き通っとる」
「触れん剣っちゃ……なしてか?どげな仕掛けなんか?」
二人ともおそるおそる切先を触ろうとするが、二人の指先をすり抜けてゆく。どうやら二人は正真正銘の人間のようだ。
俺が胸をなでおろすと、まるでオレの心を読んでいたかのように燈乃が釘を刺す。
「いまは二人とも大丈夫です。でも人は容易にマスケラになることがあるのです」
 

そうか……あの時鈴井もそうだった。
ずっとマスケラとして俺の隣りにいたわけではなかったのだ。
爆撃で砂礫に埋もれてから、まるで人が変わったのだ。
いや、マスケラになったのだ。
生存欲求のためには、他人を殺すことをなんとも思わない虫けらのような存在に。
だがいま暗躍するマスケラは、鈴井だった者とは何か違う。

白 眞一の部屋は、馬借町に出来たばかりの真新しい集合住宅の一室だ。

一度情報をもらいに行ったことがある。岡勢も知っているようだった。
電気は、ついていない。
「白がマスケラだという可能性もあります。気をつけましょう」
ゆっくりと二階に上がり、俺と伊堂寺さんは拳銃に弾が入っていることを確かめ、岡勢がドアノブを回す。
「鍵がかかっとらんです」
岡勢がドアをゆっくりと開けると、部屋の中から冷たくて、なんともいえない臭いがした。
「これは……」
俺と伊堂寺さんが目を合わせた。


血の匂いだ。
俺は玄関のスイッチを手探りで見つけて灯りをつけた。
その途端岡勢が呻いた。 
「こらぁひでぇ」
部屋の中は……血しぶきで赤茶色に染まっていた。
「入るぞ」
伊堂寺さんが顎で合図をする。
男三人ともそれなりに場数を踏んでいるからか驚きはしないが、やはり惨たらしいには間違いない。
燈乃を守るように、俺と伊堂寺さんで囲みながら土足で踏み込む。
玄関から六畳ほどの台所を抜けて、奥の居間に入ると壁により掛かるように倒れている人らしき塊が見えた。
 
男だ。
「白……!」

とうに息絶えていた。
首筋の動脈を切り裂かれている。
部屋中に飛び散った血しぶきは、そのせいだ。
「こりゃあマーケットに現れんわけよ……」
「血が固まってますね。死んで一日以上経ってます」
「死んだっちゅうか、これは殺されたんやないですか?」
岡勢の言うとおりだ。
「鑑識を呼びますか?」
「もう部屋に入ってしもうたけ、後でいいやろ。ご遺体を調べてみ」
白の傷を確かめると、殆どが顔の正面に集中していた。
だらんと下がった手は、何本もの箸で畳に留められていた。

これでは、顔を守ることもできなかったに違いない。顔見知りの犯行か、よほど不意を突かれたか……白は抵抗することもできず絶命したのだろう。
俺たちは、乾いた地糊がこびりついた白の亡骸に手を合わせたが、燈乃とカロンは、何をしているのか分からないという顔をしていた。


「金 愛淑は?」
部屋を見回すと、金 愛淑の私物らしき女性モノはそこかしこにある。だが風呂とトイレを調べても金 愛淑らしき遺体は見当たらない。
「見てください」
燈乃が玄関から伊堂寺さんに声をかける。
「こりゃあ靴の跡やな」
床に飛び散った血糊が、靴があったと思われる場所だけ白く抜けていた。
「男物にしては小さいように見えますね」
「他に金 愛淑の靴っち思われるのはあるか?」
「サンダルくらいしかありませんね」
ひょっとしたら白 眞一が殺されたところを金 愛淑は目撃してあわてて逃げ出したのかもしれない。急いで探し出さないと、命が危ない。いや……すでに……という可能性もある。

「よし、公平。署に電話して金 愛淑の捜索と保護を頼め。ついでに一台、車も回してもらえ」
「そしたらオレは、組に行って金 愛淑を見た奴が居るか、それから青い男の噂を集めてきますけ」
「分かった。気をつけてな。無理はするなよ」

岡勢は王道會の事務所がある米町へ走った。
伊堂寺さんはパトカーの到着を待ちながら、盗まれた金品がないかを調べていた。
白の部屋に引かれた電話を切ると、俺はなんとなく感じていた違和感を口にした。

「なぁ燈乃。これは、青い男……マスケラの犯行だろうか?」
「可能性は高いと思います」
「ますけらますけら」
「なしてそう思うんね?燈乃ちゃん」
伊堂寺さんが問うと、
「その死体には、楽しんだ跡が見られます」
「ますけらはひとごろしがだいすきだ」
「ただ殺すだけなら、ひと突きで殺せるはずです」

たしかに腕からも顔からもかなり出血の跡がある。抵抗できないようにしてから顔を切り、最後に喉を切ったのは間違いなさそうだ。
白だったはずの遺体の顔も、切り刻まれてはいるが……やはり死にたくないという表情がこびりついたままだ。

「でもな……このところ連続している殺人事件の被害者は全員女なんだよ。そして、かならず遺体の一部が欠損しているんだ。白は男だし、遺体は……まぁ臓器は分からんが、見た感じ手も足も全部揃ってる」

「遺体の一部がない……ですって?」
「ますけらがもっていったな」
「持っていった?」
「なしてにそげなことをする?」
サイレンの音とともにドカドカと階段を上がってくる靴の音がした。
「高梨公平、伊堂寺。すぐ金 愛淑を見つけてください!」
「大丈夫だ、燈乃。いま警察がやってるよ」
「急いで下さい!これ以上マスケラに女を殺させては、厄介なことになります」
少し馴染んで柔和に感じた燈乃の顔が、また最初に会ったときの恐ろしく整った、そして険しい顔に戻っていた。
伊堂寺さんは助手席、オレと燈乃は後部座席に乗り込んだ。

「この車には無線ついてないのか?」
「しゃーないんですよ、高梨さん。最新式の無線の付いとぉ車は、みぃんな警備が持ってってしもうて」
車を運転している刑事課の若い巡査の返事を聞いた途端、伊堂寺さんの機嫌が悪くなった。
「ほ〜。ほいできさんは、言われたとおり黙ぁってこの車に乗ってきたっちゅうーわけやな?」
「は、はい!」
「なんちゃぁ?日本の警察は、お偉いさんの警備が重要で、刑事事件は大事(おおごと)やないっちゅうんか?」
「いえ、事件はどれも……誰にとっても平等であります」
「分かっとるわい!警備の連中に、そんくらいの嫌味の一コも言ってきたんか?っちゅうとるんじゃ」
「すんませんでした……」
「バカタレが!それ程度の刑事魂もないやつは、推薦書かんぞ!」
伊堂寺さんは、むかし俺を叱りつけた時と同じセリフを吐いた。
この人は、腰が痛いだの膝が痛いだの言ってはいても、根っからの刑事なのだ。
 
船町は紫川沿いの常磐橋から、北は鹿児島本線を潜って、河口まで続く広い土地だ。隣の旭町には戦前から遊郭があり、そこの商売と競合しないよう立ちん坊たちは、川沿いからあまり離れないように暗黙のしきたりが出来上がっている。
河口には税関や水産加工会社があって、昼間は労働者や荷車やトラックで賑やかな道路も、夜となると灯りも少なく、そして女ばかりが立っている。

その船町の入り口には、看板もなにもない簡素な長屋があって、そこを通らないと北にも南にも行けないようになっている。つまりそこが女たちを管理する置屋だ。
そのうち一軒の置屋の前に車を停め、道路の向かいから覗く。
入り口は開け放してあり、三和土を一段上がったところに女が座っている。
運転手だけを残し、車を降りる。

「金 愛淑……じゃあありませんね」
何度か白 眞一と一緒にいるときに会ったことがある。
「その金 愛淑とは、どんな女ですか?」
「女にしては背は高くて、俺より少し低いくらいだ。顔は、お世辞にも美人とはいえないなぁ。細い吊り目であぐらをかいた鼻。髪は短くボサっとしている。性格は、ちゃっちゃとした感じの女だった」
「やくにたたない」
燈乃のセーラー襟の中から顔を覗かせたカロンが文句をつけてきた。

「見つけたら真っ先に教えてやるよ」
「まっさきにだぞ」 
伊堂寺さんが呆れたようにつぶやいた。
「きさん……よぉ獺と普通に喋りきるのぉ……」
「細かいことは気にしないことです。さぁ、行きましょう」

女は寒いのか火鉢を横に置いて、ずっと火箸を差したままじっとしていた。
「こんばんわ。金 愛淑さんはいますか?」
警察手帳を見せながら声をかけると、女は顔を上げた。
立ちん坊が留守番をしているのだろうか?
しかし冴えない服のわりに、顔立ちは整っている。
見覚えはない……いや、そうとも言いきれない、なんとなく引っ掛かりがある顔だ。

「また警察さんね?さっきもお巡りさんが来たばっかよ」
「そうでしたか。度々すみません。金 愛淑さんは、ここの置屋の主ですよね?」
「知っとんやったらイチイチ聞かんでいいやろ?しゃぁしぃねぇ」
「今はどちらに?」
「家におるんやないですか?商売のジャマやけ帰ってくれん?」
「それが、お留守でしたのでこちらに伺いました。留守番を頼まれるくらいなんですから、行き先くらいは聞いてらっしゃるでしょう?」

俺が質問をしている間、伊堂寺さんはなにかおかしなところはないかと、置屋の中を隅々まで見回している。

「聞いちょりません」
女は苛立ちを声に出したが、姿勢はずっと火鉢に箸を刺したままだ。
「公平、ワシは膝が痛い」
そう言いながら上がり框に腰を掛け、女に背を向けると、俺に下を見ろと目配せをする。
俺は警察手帳にメモをとるふりをして、伊堂寺さんの視線の先に目をやった。


 靴だ。


三和土に、赤茶の斑点がびっしりとついた女物の靴があった。
金 愛淑の靴に間違いない。
この女は、明らかに何かを知っている。
知っていてとぼけいるのだ。

「前に来た警官にもそう言ったのか?」
 俺はわざと語気を荒げた。
「そうよ。分かったっちゅうて帰ったんよ」
「警察を甘くみるな!捜索願いが出てるんだ!はい分かりましたと帰るはずがない!」
「しつこいねぇ……知らんちゅうたら知らんっちゃ!」
俺につられて、女の声も大きくなる。
「お前が喋るまでは帰らんからな!」
「なんちやぁ?この若造がぁ!」
「まぁまぁ、公平、そげないきり立たんでもよかろうも。なぁあんた、ワシらも別に商売の邪魔をしに来たわけやないんよ」
 
伊堂寺さんが俺をなだめるふりをする。
良い警官と悪い警官を即興で演じて、告白を促すのは刑事の常套手段だ。

「警察に話しよるところを見られたら、困ることがあるんかもしれんけ」
そう言って俺に入り口を閉めるよう指示をした。
「誰にも言わんけ。のう?ワシらにだけ教えちゃらんね?」
俺が引き戸を閉めると、女が息を吐いた。
「そげな聞きたいん?」
 

女が火箸を挙げた時、女の後ろの襖が開きドサリと重い音がした。
視線をやった伊堂寺さんが、上がり框から立ち上がった。
 

それは、紺色の制服を着た人間……首がない警官の死体だった。

女の顔色が変わった。
 

青く冷たく……光っていた。

〈第六章〉終わり

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