マスケラを狩る者〈第二章〉あの時

「おはよう高梨くん」
「お?さっそく重役出勤ですか?部長サン」
「おいおい、先に昇進したからっちゅうて、それは言わん約束やろ」
島野さんは年上だが、戦場でのケガで復職が遅れ、先日昇任試験を受けてやっと巡査部長になった。
巡査部長になりたての者は、ちょっとの間「部長サン」と呼ばれる。所轄には県警本部の刑事部長はたまにしかやってこないから、問題になることもない。軽口の類だ。



「もう一月八日か……嫌よ嫌よと言いながら〜」と、敗戦日の都々逸もどきを口ずさみながら、書類だらけの机に島野さんがへばりつく。俺は昨日作成した帳書にもう一回目を通した。

女がまた一人殺された。

人死に遭うといつも思い出してしまう……鈴井を止められなかったあの時を……躊躇わなければ何人救えただろう……

薩摩半島のあの名ばかりの要塞で米軍の捕虜になり、二ヶ月で終戦を迎えた。
俺は元の職場……福岡県警に復職するよう命令された。

あの戦争でたくさんの人が死んだ。
なによりも南方では数十万人の兵が戦う機会もなく餓死をし、滿洲や朝鮮、台灣にいた兵たちは引き揚げることもできず、日本はとにかく男手が足りなかった。
喧嘩引ったくり暴行殺人と事件がひっきりなしに起きるので、交番勤務だった俺が、あっという間にベテラン扱いされるようになって、今じゃ一係の刑事だ。

昇任試験も県警本部の管理官に「ウけなさい」と命令され、忙しのに…とぶつくさいいながら適当に解答をしただけだ。
「ケイジ…ブチョをニンず」
「拝命します!」
そんな慌ただしい五年間だった。

日本は米国の属州扱い……正確には準州となったのだから、何をするにもいちいち米国人の管理官に命令されたり確認を取らなければならない。

「神志那(こうしな)さん、調書の翻訳お願いします。」
島席にいる帝大出の係員に、調書の間に1ドル札を挟んで渡す。
係員はすっと札を手のひらで覆い、一番上の引き出しに札を落とすように入れ込んだ。

英語の読み書きが出来、且つ会話のできる者は、こうやって金を蓄えてゆく。羨ましい限りだ。


「それでは島野さん、あとはよろしくお願いします」
「おおう、あとで緊急呼集かけちゃるけん、ゆっくり休んどき〜」

島野さんはそんな意地悪な人ではないが、事件は起きるのだから、休みでも呼び出されることもしょっちゅうだ。それが警察の仕事なのだから仕方がない。

「おつかれさまでした」
夜勤を終え、署の玄関に立つ警備係と挨拶を交わすと、爆撃で城壁が崩れたままの小倉城址を横目に坂を下りる。紫川に出ると、玄界灘から吹き込む湿った北風が、仕付けの悪いコートの隙間から膝を冷やしてくれる。
朝鮮に比べたらマシだが、寒いことに変わりはない。


まっすぐ旦過橋の闇市まで歩いた。

「高梨の旦那!」
旦過マーケットに入ると、すぐに白真一(ペク ジンイル)が声をかけてきた。
ここを仕切っている古参の一人だ。
「こないだはどうも」
「なんのことだ?」
「次の取締はいつですやろか?」  
「生安と管理官が決めることだから、一係の俺は蚊帳の外だよ」
通称「生安」と呼ばれる生活安全係は、署内で何処の担当とも言えない事件を扱ういわば便利屋だ。あちこちをうろついているから、嫌でも取り締まりの情報は入ってくる。

「そげなぁ〜お礼はしとるやないですか〜」と言いながらズボンのポケットにドル札を数枚ねじ込んできた。
別にそういうものが欲しくて情報を出し惜しみしているわけではなく、本当にまだ決まってないのだ。ただ配給も当てにならず、皆が皆給料だけでは厳しいので、今はなんにでも値段がつくのだ。


これでもまだ終戦直後よりはマシになったほうだ。

「ちょっと聞きたいことがあって寄ったんだよ」とポケットに突っ込まれた手をそのまま引っこ抜いて、白真一の大きめの背広の胸ポケットに札を仕舞わせた。

「こないだ日明(ひあがり)で死体が見つかったのは知ってるだろ?」
「ああアレですか。また立ちん坊らしいですが…ちゅうてもえれぇ酷かったっち聞いとりますけど」
「ああ…」
「王道會や廣岡組、全羅聯合(ちょんられんごう)で、なにかトラブルがあったか聞いてないか?」
「王道會は、いつもどこかと揉めちょりますけねぇ…」
「最近入った威勢のいいヤツを何人か教えてくれ」
「それやったらですねぇ王道會の岡勢(おかせ)、廣岡組の樵田(こがた)ですやろか。二人とも戦争の死に損ないですわ。全羅聯合は……勘弁して下さい」
「そうだな。貴様は内地育ちとはいえ柵があるよな。時間取らせてスマンかったな」

俺も全羅聯合は苦手だ。

未だに続くソ連と中国の国境線争いを逃れて日本に逃げてきた連中がうじゃうじゃいる。自分の生まれ育ったあの地に望郷の念は少しはあるが、それは日本人としての感傷だ。彼らにとってみれば、俺は支配者側の人間だったわけで、同じ地に育った人間同士でも、分かり合えない壁がある。そんなことは今目の前で笑っている米兵を見れば、嫌でも分かる。

だから外地で育った鈴井とは分かり合えたような気がした……

四係に電話してみるか。
マーケットを出ようとしたところで白に呼び止められた。

「ちょっと……高梨さん」
「金は、さっきのでいいだろ?」
「いや……そうやないんです…その」

「立ちん坊があんまり殺されるのは……その……困るんですわ。こうたて続きやとみんな怖がって……これは、ただの不良の仕業とは違うんやないやろか?っち、みんな言いよるんです」
「誰だって殺されていいはずがないだろ。ちゃんと調べるから安心しろ」
「高梨さんを信用しとらんっちゅうわけやないんです。その……立ちん坊たちの間で妙な噂がありまして……いや……わたしも信じとるわけやないんですけど……青い男っちゅうのが居るらしいんですわ」
「青い男?」

「戦争で死んだ男なんかなんか分からんですけど、幽霊みたいに青く光りよるっちゅう話なんです」
「幽霊なら警察の出番じゃないよ」
「それが、ちゃんと触れるし、ちゃんと生きとぉっちゅうんです」
「ふぅん……」

白の話を聞きながら俺はあの時の鈴井のことが頭に浮かんだが、すぐにバカバカしいと苦笑いをした。そうじゃないか。鈴井はあの時たしかに死んだんだ。
「その青い男の……背丈や格好は?」
「それが……どうもちぐはぐっちゅうか、ちゃんぽんっちゅうか。髪があったりなかったり、片手がないとか、いや両手はあったとか……」
「それじゃあなんの参考にもならんなぁ。やっぱり幽霊なんじゃないのか?」
「それはそれで怖いやないですか」
「確かになあ……」

「まぁその青い男のことはいちおう気には留めておくが……連続殺人は実際に起きてるんだ。犯人は早く見つかるに越したことはない。俺たち警察に任ろ」
右手を挙げてマーケットを出ると、後ろから白の声がした。
「……チャルプタカムニダ!高梨さん」
「俺は朝鮮語はわかんないよ。内地育ちならそれらしく日本語を話せ」
少し振り向くと、白は深々と腰を折っていた。

白の女は立ちん坊の元締めをしてる。
商売にも差し障りはあるが、なにより顔見知りが殺されるのは誰だって嫌なものだ。立ちん坊同士にもそれなりの連帯感はある。
もし王道會や廣岡組や全羅聯合が絡んでるとしたら、ケツ持ち代をケチったかなにかで見せしのためということも考えられるが、白には何も心当たりがなさそうだ。
白がとぼけているのか、それとも本当に知らないだけか。

噂になっているという青い男の話は差し置いても、違和感がある。

死体だ。
バラバラにするのなら分かる。
人間の体は意外と重くて嵩張るし、そのままでは持ち運べないので仕方なく解体する。


だがこのところ連続している女殺しは、そういうものとは違う……必ず死体の一部……指や腕、片脚が欠損している。

その死体の顔を見てると……戦場を思い出す。砲弾や銃弾で傷つき死んだ仲間たちに、どことなく似ている。まだ死にたくない……そんな恐怖が貼りついた表情をしていた。
もし俺もあそこで死んでいたら、あんな顔をしていたのだろうか?

そんな仮定には意味が無い……
現に俺は生きているじゃないか。

そうだ……!あの妊婦と赤ん坊は元気だろうか?
せっかく助かったのだ。生きていて欲しい。

しかしあの時現れた不思議な少女と獺はいったいなんだったんだ……?あの少女はためらいもなく鈴井の顔を削ぎ落とした。

「マスケラを狩る……」
聞き間違いでなければ、少女はそう言った。
あの時の鈴井も青く冷たい光を纏っていた。それと何か関係があるのだろうか?

バカバカしい……俺は警察官だ。死んだ者は捜査しようがない。
地道に調べて犯人を見つけよう。それがあのとき人を救えなかった俺に出来る、死んでいった連中に報いる唯一の方法だ。


「もしもし?俺です。高梨です。金田くんは?……ええ、非番ですけど、ちょっと聞きたいことがあって……」

道路を渡り、魚町の入り口にある公衆電話から四係に電話すると、金田は京町で組員同士の喧嘩があり、そっちに出ていると言われた。
京町なら五分もあれば着くだろう。

「じゃあ行ってみます。いえ、急ぎじゃないんで。はい、行けば大体見当はつきますから」
そう言って電話を切ると駅まで連なる商店街を、ゆっくりと歩き始めた。

魚町は、闇ではない昔からある商店街で、買い物客が雨でも濡れないよう通りに屋根をつけるとかで、なにやらあちこち工事をしている。
やはり米軍が金を落としていく分、景気は良くなっているのだ。

収容所から出て、小倉駅に降りたときからこの数年でそれなりの普請の建物が増え、大通りから肋屋は姿を消した。だがその恩恵に預かれない者もたくさんいる。少なくはなったが、預かりたくないという者もいる。そういう連中は厄介だ。そこかしこにいる米兵をギラギラした目で見ている。

殺された親兄弟や仲間の仇を討ってやる……そんな目をしている。

気持ちは分かる。

ただ……その気持ちに突き動かされてしまった奴は、捕まえなくてはならない。頼むからそんなことはしでかさないでくれと、そういう目をした連中に目を配りながら歩くのが、日常になってしまった。
そんな目をしている者達の中に、容疑者が紛れているのかもしれない。
実際米兵たちに媚びを売る立ちん坊を嫌う者はいるし、愛国心がないと罵る連中もいる。そいつらが見せしめとして立ちん坊を……

……だが死体の欠損の理由には繋がりそうもない。

魚町を抜け京町に入ると、焼き鳥屋の向こうから男の叫び声が聞こえた。

「しゃーしぃっちゃ!関係ないっち言いよろーが!」
あそこだなと、小走りでかけよる。

「金ちゃん、どうした?」
「あ、高梨さん。どーもこーも……こら大人しゅうせぇ!岡勢!」
四係の金田は柔道の猛者で、こいつに抑え込まれたら署内でも返せる奴はそうはいない。ガッチリとした体格を活かして暴れる岡勢を壁に押し付ける。
「こいつが、王道會の岡勢か」
「一係まで知られとぉですか?お〜貴様(きさん)有名人やな」
「なんちゃぁ?こらぁ!」
ムダな抵抗をしながら岡勢がわめく。見た感じ角刈り頭にピシっと剃りこみを入れ、だぶだぶなストライプの背広に赤い派手なシャツを着込んだ、二十歳そこらの粋がったあんちゃんだ。

「全羅聯合の連中と……白昼堂々と…ケンカしよったんです!……ヤッパとかチャカとか何も持っとらんな?」
「原因はなんだ?女か?シマか?」
「女ですよ。あそこにおります」

金田の視線の先を見て、俺は目を疑った。
あの丸い額……!ほつれた髪……!

「兵隊……さん……?」
向こうも俺の顔を見て驚いたようだ。
間違いない。あの名ばかりの要塞の中にいた妊婦だった女だ。

              *

「あん時は、ほんっとすんまっしぇんでした。お礼も言われんと占領軍に引き離されたもんですけぇ……かばってもらってありがとうございました。おかげでこうして生きとられます」
京町の外れの小さな喫茶店で、国分春子は丸い額をつやつやと熙らせながら、コーヒーを口にした。肥後訛りか筑豊訛りか……きっと九州を転々としてきたのだろう。壕の中では分からなかったが、王道會の岡勢が気に入るのがなんとなく分かる気がする。そういう愛嬌がある。


「いや……それより足は大丈夫なのか?撃たれた足は……?」
「あのあと占領軍に治療してもろうたんで。ちょっとびっこにはなりますけど……」と言って、太ももを擦った。
立っていた時にはスカートで隠れていた銃創が、春子の小さな手のひらで見え隠れする。

「それで…その……あの人は大丈夫ですやろか?」
「あんたが岡勢の女になってるとはなぁ……王道會で一番やんちゃな奴だって話じゃないか。相手は全羅聯合の誰と誰だ?なんで揉めた?」

「………兵隊さん……いえ、高梨さん。本当に刑事さんなんですね」
「スマン。その……別に取り調べじゃないから、答えたくなかったら答えなくていいんだ。俺は担当じゃないからハッキリとしたことは言えないが、おそらく喧嘩程度じゃ全羅聯合はなにも言ってこないだろう。それなら数日で岡勢は帰ってくるよ」
「本当ですか?はぁ……すんまっしぇん。」

口癖のように謝ると、春子はまたコーヒーを啜って飲んだ。
「あん人荒っぽかですから…ばってん、ウチには優しかとです。足に傷のあるウチんことば庇って……その……」

見れば分かる。国分春子は、立ちん坊だ。きっと南郷聯合のチンピラが、歩き方でもからかったのだろう。

「足の傷は……俺のせいだ。スマン」
「そげなことなかです!ウチは命ば助けてもろうたとですけん!あん時は、あの兵隊さんが悪かったとです!」

あの時……あの時か……あれから五年も経つのに俺はずっと離れられないでいる。

「こっちに来たのは最近なのか?」
「はい…前は博多に居りました。」
「あっちは空軍基地があるから、こっちよりもっと景気が良いだろう?」
博多はいま東は志免町から西は鹿児島本線までの広大な地域が、空軍博多基地として使われていて、那珂川の中洲一帯は一大歓楽街になっている。
「景気が良かってことは、そんだけ競争ばきつかですもん。ウチはこんなんですけん……」
「あ……いや」
「良かですよ。そのおかげでぇこうしてまたお会いして、お礼ば言うことが出来たとですから」
「……スマン」

俺も春子に釣られるように謝まり、角砂糖を二つ入れた甘苦いコーヒーをぐっと飲んだ。

「高梨さんは、こっちの人やなかとですか?方言ば出よらんですよね」
「うん、俺は中学二年まで外地育ちでね。一時期は頑張って喋ろうとしたんだが、二十歳で軍隊に招集されたら方言で喋る機会も減ってしまってね…署内でもなんとなく浮いてるよ」
「どこにおらっしゃったとです?大陸ですか?」
「朝鮮だよ。咸鏡北道の羅南ってとこでね。立ち小便をすると地面から凍り始めて逆さまの氷柱になるくらい寒いんだ」
俺が冗談っぽく言うと、春子は一瞬目を見開いてから笑った。
「あ……あはははは!高梨さんも冗談ば言うとですね」
「言うよ、冗談くらい言うさ」
小さな喫茶店で二人で笑った。
随分久しぶりに声を出して笑った。

この人が生きていて良かった。
俺は心の底からそう思った。

春子が奢ると言い張ったが、こういうのは経費で落とすからいいんだと二人分を自分で払って外に出た。署に訪ねていけば岡勢と面会できるよう電話しておくからと言うと「すんまっしぇん」と春子が頭を下げた。

「そうだ……聞きにくいことを聞いていいか?」

俺はずっと気になっていたことを切り出した。
「赤ん坊は……あのとき生まれた子は元気なのか?」
「はい?」
春子は驚いてまた笑った。
「なんば言いよっとですか?高梨さん、また笑かそうとして」

「ウチには子供なんかおらんですよ」

いや……しかしあの時……そう言いかけて俺は口をつぐんだ。

あの時…あの時……

俺が記憶を手繰る間に
「ありがとうございます。明日面会に行きますけんその時にでもまた」
と、春子は日が傾きかけた商店街を、少しもどかしそうなスキップしながら去っていった。

俺がおかしいのだろうか
女が自分の産んだ子を忘れるだろうか?
いや……あの赤ん坊はあの後すぐに死んでしまい、そのショックで?

勤務の後で疲れてるのか、それともあの時の俺の記憶が混濁しているのか……

そのことばかりが頭を巡り、春子に気をつけるよう言うのを忘れていた。

〈第二章終わり〉

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