『クライマーズ・ハイ』になることは誰にでもある。
オタク的な趣味はずっと好きだし、そういうものから離れたいとも思わったことはありません。
とはいえBTTFマニアやトレッキー、シャーロキアンのように、その作品世界にだけ先鋭的に詳しくなるタイプではなく、広く浅く。
モノを作る人間として演出部分にはすごく心を惹かれるから、それなりには詳しくなりましたけど、それは職業病みたいなものでしょう。
オタクは知識比べを是としていた時代もありましたけど、今はそういう時代ではないので他人の本棚をギラギラした目で眺めることもしなくなりました。
マンガやアニメが好きな人を学年中から一人か二人見つけるのが難しかった時代に比べたら、様々なツールの発達や世間の認知も変わって、同じ学校じゃなくてもヲタ友を作ることもできますし、なにしろボクの友人たちの子供がそろそろ成人しようかというくらいだから、親子共通の趣味として楽しんでいる世帯もたくさんあるでしょう。
でもそれとは反対にどういうわけか「オタクって変」って目も消えてはいない。
自分が正しいと思ってることを正しく認識してもらえないと納得ができない癖(へき)とでもいうか、「ちょっと違うんだなぁ」と言いたくなるからいけないのか、そのくらい流しておけよということができない質というか…
マンガ・アニメだけに限らずマニアってのはそういう部分はあり、究極はオーディオマニアかなぁと個人的には思ってるんですけど、偏見を助長したらいけないし、アレはお金がかかりそうな趣味なのでそんなに面倒くさい人はたくさんはいないような気がします。音で人は殺せますけど、あんまり攻撃的な人もいないかな?カーオーディオをドスンドスン鳴らしている人は、時々ムカッとしますけど。ウチ道路沿いなんで。
マンガやアニメのオタクっていうのは、ある種ステレオタイプが出来てしまっているせいか「おまえってこうなんだろ」って決められがちだし、こちら側も迷惑かけてないのになんでこんなこと言われなくちゃならないの?って気持ちになったことも何度もあります。
一番いい回避方法は「仕事にしちゃうこと」って20代の時にSFファンジンの集まりで言われました。多分いまでもそうでしょうね。
宮崎事件とかいろいろありましたけど、まぁ言われっぱなしでしたよね。基本的にメディアにはネガティブに捉えた報道されたし。
『新世紀エヴァンゲリオン』がテレビ放送され社会現象になるのとほぼ時期を同じくしてパソコン通信がインターネットへ移行し始めたおかげでいろんな人が炙りだされ、違う角度や頑なな方向で発信する人はウォッチ対象にされるようになりました。
かなり個性的な人物はハンドルを替えても、隠し切れない個性によって「あんた前は◯◯って名乗ってたろ」と特定される時代の始まりです。
SNS時代になっても変わりません。
ただ2ちゃんねるのような巨大掲示板に集約されるのではなく、各々のタイムラインに分散され尖った発言だけがRTされて目に入り、まとめられ拡散してゆくという、むしろ特定されてしまった時の被害は大きくなってしまった。
その結果20年前は「このくらいはいいじゃん」で済んでいたものも済まされなくなりねっとり手らしい…ネットリテラシーが求められるようになりました。
ルールでもないマナーでもないリテラシー。照らし合わせるリテラシー。
違います。
歌詞みたいに言ってもダメです。
能力です。
情報を発信する側の判断能力が問われる時代になったのです。
ボクも最近こうやってnoteにいろいろ書き綴ってはいますが、編集者もいない。「これマズイんじゃないですか?」って言ってくれる人もいないので、書いては消し書いては消ししながら、ドキドキしながら「後悔するボタン」を押しています。すみませんわざとです。
この頃オーガナイズが甘いイベントがあると「コミケは違う」という意見を目にする機会が増えました。
コミケにはもう15年くらい参加してませんが、友人が混雑対応だったりしたので話は聞いています。それはそれはいろんなことを考慮し、ギリギリのところを渡りながら成立している素晴らしいイベントだということも分かっています。
コミケを成立させているのは、一般参加者、サークル参加者、コスプレイヤーさんや参加企業、そして認めたくはないけれど徹夜組。
ボクらは徹夜組というルール違反者を内包していることを認めなくてはならないのです。
彼らを一切認めず、会場外に放ってしまったら…その結果が火を見るより明らかなので目をつぶっているだけ…
たしかにトラブルは少ないでしょう。熱中症も少ないでしょう。
ポジティブな意味で参加者の意識が高いからです。
たしかにボクたちのほとんどは、ルールやマナーを守っている。
だからボクたちはコミケを誇りたくなる。
でもその時に他の出来事と比べなくてもいいんじゃないかな?
いろんなイベントで問題が出たりするのは、経験の蓄積がないから。それは間違いないでしょう。でもだからといって、そこでコミケを引き合いに出してもらいたくない気持ちもボクにはあるのです。
先日『クライマーズ・ハイ』というNHKのドラマを見ました。
横山秀夫さんの小説をベースにした作品です。読んだ方やドラマを観た方には釈迦に説法になってしまいますがお付き合いください。
物語の冒頭で主人公が「記事に大事な写真がない!撮ってこい」と叱責した部下が交通事故死します。
それは主人公のせいではありませんが、中盤ほどで望月彩子という女性が出てきます。石原さとみさんが演じていました。
彼女はその部下の従姉妹だったのです。
日航123便の事故を報じる群馬県のローカルの北関東新聞社のデスクに、どうしても読者投稿の欄に載せてくださいと彼女は一通の手紙を手渡します。
その内容は冒頭事故死した新聞記者の命と日航123便の事故で亡くなった方の命の重さ、価値は同じでしょうか?と問う内容でした。
前者はベタ記事扱い、後者は何日も一面が続く扱い。
123便事故の扱いには全権を与えるとデスクに抜擢された佐藤浩市さん演じる主人公悠木和雅は、それまでに何度か「売れそうな大見出し」「売れるだろうけどインパクトが弱まる大見出し」の決定で慎重を期した挙句後者を選んでしまう。圧力隔壁が事故の原因であるという記事も、確定情報が得られなかった…記者の確証としては正しい…しかし…そう悩んだ挙句全国紙に抜かれてしまう…そういう判断をし続けた男でした。
しかしその手紙はどうしても載せると言い張るのです。
疲れをにじませた女性が子供を連れて「地元の新聞社なら一番詳しい情報が載っているんじゃないかと思って…」と、ここ数日の新聞はありませんか?と訪ねてきたとき、編集部にいた全員が1階の販売機に行ってくださいといって追い返したあと、悠木和雅はひとり新聞を鷲掴みにして女性を追いかけたのです。
新聞を受け取り深々と頭を下げて去っていった、彼女は霊柩車に乗り込みました。
123便事故の被害者遺族だったのです。
翌朝その手紙を載せてくれと訴えていた望月彩子は狼狽します。
自分の投稿が載っている、希望は叶えられたのです。なのに…とんでもないことをしてしまった…と。
その日の北関東新聞のトップは、123便の機内で書いた遺書…もう飛行機には乗りたくない、どうか家族を守ってほしいとミミズの這ったような判読も難しい…ボクらが何度も見たことのあるあの遺書だったのです。
その手紙を受取るときに「私が愛していた望月亮太の命と日航123便の事故で亡くなった方の命の重さ、価値は同じでしょうか?」と望月彩子に問われた悠木和雅は「同じだ」と答えます。
遺族一人一人にとって、その生命の重さや価値は同じに決まっているのです。
そんな当たり前のことを、いま問うべきことではなかった…
望月彩子は、自分の言葉が独り歩きしてしまったことに恐怖します。
その結果その新聞社には抗議電話が殺到しますが、123便の遺族からの電話はなかった…それだけが、このストーリーが生み出した希望の結末でした。
だから新聞記者は書き続けるしかないんだと悠木和雅は望月彩子に告げます。
断崖を登っている興奮の最中では、自分が「クライマーズ・ハイ」状態にあるかどうか気付くことは出来ない。しかしその最中に覚めた時…とてつもない恐怖が襲って一歩も進めなくなってしまう。
でも人間は生きてる限り進まないわけにはいかないんだ…
原作の横山秀夫先生ならびにドラマ制作班の皆様、このように主観を交えてあらすじを語ってしまうことをお許しください。
誰もが情報発信をできる時代になった今こそ『クライマーズ・ハイ』は読まれ、またドラマも観られるべきではないかと考えたのです。
自分のつぶやきが突然大量にRTされ始めたときに恐怖を感じた人なら、分かってもらえますよね?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?