マスケラを狩る者〈第四章〉傷痕

署に戻ると、俺は少女を連れて二階の刑事課へ上がった。

警備課の連中が慌ただしく働いていた。
なんでも辻準州知事が福岡を視察するらしく、警備の予行演習やらなにやらで忙しいらしい。我が第四十軍参謀も出世したもんだ。あんな杜撰な作戦を立てても出世は出来るのだから、世の中がむちゃくちゃなのも仕方がないというものだ。

時刻はまだ八時を少し過ぎたところだ。この時間ならまだ拘置中の容疑者への取り調べは行われていないので、自由に使える。
他の職員には、少女がどうも怖がっているようだからと言い訳をしてドアを閉めた。内側から鍵はかけられないので、獺のような獣が見つからないよう林檎の空箱に買ってきた鱸(すずき)を入れて、俺のコートを掛けておいた。

早速バリバリと魚を齧る音がし始めた。
「はらわたがない」「うまみがたりない」
と、食べながら文句をいう。
俺の仕付けの悪いコートにも魚の匂いが染み付いてしまうだろう。もっともずいぶんクリーニングに出していないから、買い換える潮時なんだろう。


「キミも食べるといい」とかしわ飯を差し出して気がついた。
「そういえば、キミ……名前は?」
「名前はありません」
「こいつはかりうどだからななしだ」
「喋るなといったでしょう」

少女は礼儀正しく頂きますと言って、かしわ飯に手をつけた。
とりあえず俺の選択は間違ってはいなかったようだ。
腹が減っていた俺は、取調室に広がる魚の匂いも気にせずかしわ飯を掻きこむと、今度は記入枠が印刷されたわら半紙に要項を書き込んでいった。
「身元証明書なし」「年齢一六歳(着衣から推測)」
「戦災孤児」「住所不定」
「名無しは……ちょっとまずいな」
「まずいまずい」
「失礼ですよカロン。ご飯を食べさせてもらっているのだから」
何か言うと、いちいち口を挟んでくる。俺の眉間にも少しシワが寄り始めた。

名前か……戦争で名前も記憶も無くし、通称で呼ばれてる者もいることはいる。
「キミの名前……燈乃(とうの)はどうかな?」
「とうの?」
「ああ、キミを初めて見た時、いや姿を現した時といったほうがいいかな……橙色に光っていたから」
「だいだい……いろ……だいだ……い……い…」
魚を食い終わった獺のような獣は、どうやら眠りに入るらしい。
いい気なもんだ。


「わかりました。私の名前は燈乃です」
「まずキミは狩人で、マスケラを狩るのが職務だったな。俺は刑事で犯罪を犯したものを捕まえるのが仕事だ。だから少し似てはいると思う」
「そうですか?高梨公平は狩りをしないでしょう?」
「キミはこの街にマスケラが潜んでいると言った。犯罪者も俺達から身を隠す。だから探し出すまでは同じだよ」
「なるほど、それならそうですね」
「さて……さっきの続きなんだが…………立ちん坊たち……つまりその……なんて説明したらいいかな……夜になると女が通りに出て男を誘うんだ。それで……まぁ、いろんなお世話をしてお金を貰うという仕事があるんだが……」
「ひょっとして頬被りをした女たちですか?それならマスケラを探している時にたくさん見ました」

よし、一歩前進だ。

「その女たちがこのところ”青い男”ってのを見かけたって噂をしている」
「青い男……?」
少女……いや燈乃の眉尻が上がった。
「そうだ。俺の聞いた話じゃあ髪があったりなかったり、それから片手がないとか、両手はあったとか……証言は様々だ」
「その青い男は、ここにはたくさんいるのですね」
「それはわからない。ただ五年前……キミが鈴井を……キミが言うマスケラだが……」
俺はあの時の記憶を確かめながら……いやそんな必要はない。あの時の記憶は何ひとつ間違っていない、その証拠は目の前にいる。
「……マスケラは青く光っていた」
「そうです、マスケラは人を殺す喜びを感じると、その歓喜に耐えられずに青い光を漏らしてしまうのです」

「青い男は……青く光るんだそうだ」

「高梨公平、それはマスケラです。何処にいるのですか」
燈乃はそう言うと席を立った。
「待て!待て!待ってくれ…!」
燈乃を座らせ、お茶を淹れた。
燈乃はイライラしているのか、恐ろしく整った顔がさらに険しくなっている。
「いいかい?まずキミとカロンは……どこの住人なのかはわからないけど、この世界とは違うところから来た。それは間違いないね?」
「そうです。冥界の門から来ました」

冥界の門……か。俺があの時死んでたら、そこを通ったわけか……
死んだ後のことは誰にも分からない……だがこんな不可思議なことが実際に目の前で起きてるんだ。燈乃の言ったことを信じるよりほかにない。

「マスケラとは……なんだ?」
「マスケラは、死んだにも関わらず冥界の門を潜らなかった者です」
「えっと……人は死んだら黄泉の国とか天国とか……と地獄か……まぁ言い方はいろいろだろうけど、あの世に行くんじゃないのか?」
「生命が尽きると、肉体を支えていた魂は冥界の門へ行きます。そこから先どこに行くのかは私は知りません。少なくとも冥界の門を潜った者は、こちらには戻ってこられません」
「なるほど……」

となると、お盆にご先祖様は帰ってこないわけかと独り言をいうと、燈乃はわからないという顔をした。
「マスケラはなぜ冥界の門を潜らない?」
「一番初めのマスケラは、冥界の門番でした」
「門番?」
「はい、門番とは、冥界の住人にして唯一冥界の門の外に立つことができる者です。もちろんそこから離れることは出来ないはずなのです」
「しかしある門番は、冥界の門の手前で引き返す者がいることに気づきました」
「ああ、死んだと思われたものが生き返ったりすることはあるが……ひょっとして、それかな?」
「はい、その門番は自分の顔を切り落とし、引き返そうとした者の顔とを取り替えて、この世に戻ることに成功しました」

「顔か……」
俺は鈴井の顔を思い出した。たしかにそう言われてみれば、砂礫の中から引きずりだした鈴井の顔は、それまで俺が知っていた奴の顔とは、なにかが違っていた。
「ですからマスケラはこの世では二つの顔を持っています」
「普通の顔と人殺しの顔ってことか……」
そんなにまでして人を殺したいのか……
燈乃は言った……マスケラは人を殺す喜びに満ち溢れた時に、青い光を漏らす……と。
つまりそれは……人が食欲や性欲を満たすように、マスケラは人を殺し続けるってことじゃないのか?
マスケラを見つけ出し葬らない限り、この連続殺人は止まらない……放っておけば必ずエスカレートするってことだ。

こんなこと他の誰に言っても信じてはもらえないだろう……
あの時あの壕にいなかった者に分かってもらえるはずがない。

俺に止められるだろうか……
「高梨公平……あの時と同じ顔をしていますね」
「そうか?」
「躊躇っているのですね」
「あ……ああ。そうかもしれない」
「マスケラ相手に躊躇いは禁物です」
「そうだったな……」
「気をつけてください。優しい人ほど、つけこまれやすいのです」
鈴井に言われたことと同じことを燈乃にも言われてしまった。
そのとおりだ。俺のせいで死ななくてよかったよかった人を死なせているのだ。

コンコン

ノックの音で我に返った。
「高梨くん拘置人の取り調べ始まるけ、そろそろいいっちゃろか?」
「あ、ああ。はい。今空けます」

俺はカロンが入った林檎箱を自分のデスクの下に押し込み、燈乃を自分のデスクの椅子に座らせた。移動する間、燈乃は上手に松葉杖を使ってみせた。誰が見ても本当に足が悪いのだと思うだろう。

「公平!朝方また殺しがあったっちゅうけど、どぉなっとるんか?」
「あ、おはようございます」
刑事班の机から窓側に机一個ほど離れた島席から声がした。
主任席に座る伊堂寺さんだ。
伊堂寺主任は、俺が刑事になったときの教育係だ。本来ならいっしょに行動をしなければならないのだが、五十を過ぎてからというものやれ腰が痛い足が痛いと、机を離れたがらなくなった。

「たまたま早出したときに駆りだされました。島野さんと井ノ口も一緒でしたので、主任には連絡を入れませんでした。すみません」
「んなことはいいっちゃ。俺が行ったからっち、別に事件がすぐに解決るすわけやないしの。おかげさんでゆっくり寝られたけ」
伊堂寺さんが生あくびをしながら燈乃に目をやる。

「ほいで、その子は?なんか見たんか?」
「あ、はい。青い服を着た男を見た…と」

とっさに嘘をついた。
「ふうん……足が悪いんか……かわいそうに。服もボロボロやないか。お嬢ちゃん名前は?」
「燈乃です」
「そうか、燈乃ちゃんね。ご両親は?」
「……」
燈乃は黙って伊堂寺さんを見つめている。
「戦災で……亡くされたようで……」
「お前には聞いちょらん」
「燈乃ちゃん、青い服の男はどの辺で見た?どっちに行きよった?」
「……」
「殺されるところは見たんか?」
「伊堂寺さん……!」
「きさんには聞いちょらんちゅうとろぅが!」
伊堂寺さんは立ち上がると、俺について来いと合図した。

刑事課を出るとまっすぐ警務課の方に歩いて行った。
「あの子を帰らすな」
「なんでですか?参考人ですよ」
「アホか、きさん?あげな怪しい女がおるか?」
「い、いや、戦災の後遺症でいろいろ記憶も飛んでるようですし……」
「あの目ぇ見たか?あれは普通やないやろが!」

「警務課で着替えを用意してもらうけ、あの子の服を鑑識に持っていけ。簡易の血液鑑定をする」
「……理由がありません!どうやって裁判所から許可を……」
「そげなもんは後からどげんでもするんが、ワシらの仕事やろうが!」
一喝された。
くそ……たしかに燈乃はただの女ではない。叩き上げの伊堂寺さんの経験と勘は当たってはいる。

「燈乃ちゃん、風呂に入って行き。せっかくのべっぴんさんが台無しやもん」と警務課の女性職員に促されて、燈乃は連れて行かれてしまった。
こういうときにも上手く松葉杖を使うくらいに芝居ができる。燈乃は頭が良さそうだ。多分余計なことは喋るまい。

燈乃は犯人ではないのに……もどかしかったが、言い出したら聞かない人だ。燈乃の着ていたあちこちが傷んだセーラー服を籠に入れ、鑑識課に持って行き血液が付着していないか簡易鑑定を頼んだ。

                 

「たまげたわぁ……」
「こげな……まぁ……お人形さんのごたるねぇ」
警務課の女性職員が感嘆しながら燈乃を連れ戻ってきた。

「前に着とったのと同じようなもんのほうが安心するんやないかと思って……」と、気を利かせた警務課の職員が用意したのは、持ち主を失ったセーラー服だった。
鑑定に出した白地に紺襟のものではなく、上下とも紺色で、襟に一本白い線の入ったもので、一見したところ何処かの良いとこのお嬢さんのようであった。松葉杖を突く姿こそ儚げに見えるが、アレが刀になると言っても誰も信じまい。

その美貌はあっという間に署内の噂になり、刑事課には野次馬が集まって来たが、伊堂寺さんが、仕事に戻らんかと怒鳴って引き戸を閉める。

「燈乃ちゃん、改めてワシに話を聞かせてくれんやろか?」
「……」
「青い服の男をどこで見たんやろか?」
「……」
「人が殺されとるのを見て怖くなかった?」
「……」

燈乃は延々続く伊堂寺さんの引掛けまじりの質問に、表情一つ変えず黙ったままだった。
昼飯前になってようやく伊堂寺さんのほうが音を上げた。

ハァと大きくため息をつき
「なしてやろか……この子は、まったく動じん……こっちがどげな質問しても顔色一つ変えよらんし、感情ちゅうもんがいっちょん感じられん。人形っちゅうより、死人を相手に話かけとぉみたいや……」と漏らしながら主任席に戻ると、タバコに火をつけて一服した。

「なぁ公平、そろそろ今朝の事件の現場写真が上がるんやないか?」
「この子に見せるんですか?」
「ええやろが。思い出してもらわな困るのはこっちや」
わかりましたと渋々答え鑑識課に電話を入れようとしたとき、引き戸開いて鑑識課の若い男が入ってきた。

「さて……と、こげなもんは、昼飯前に見といてもらったほうがいいやろねぇ」と席を立ち、伊堂寺さんが一枚一枚写真を並べてゆく。

首から上が、切り落とされている死体だ。
自分の質問に全く答えようとしない少女に業を煮やしたのだろう。
とはいえ、こんな酷い代物をよく少女に見せようという気になるものだと、自分の上司に内心腹を立てながら、写真に目をやった。

嘘だ……!

「なした?公平?」
伊堂寺さんの声が遠い。
見間違いだと、もう一度見た。

だが、確認すればするほど、確信に近づいていく。

自分で血の気が去っていくのが分かった。
俺は、膝から崩れ落ちていた。

傷痕だ……

俺は……この写真に写った死体の太ももにある傷痕を知っている。

なんてことだ!

この人には生きていて欲しいと願い……生きていてくれてよかった!そう心の底から安心して、笑って別れた人の傷痕を……見間違えるはずがないじゃないか!


この遺体は……国分春子だ……!





〈第四章終わり〉

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