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『あさが来た』のコネ

おはようございます。
『あさが来た』
おもしろいですよね。

このところの朝ドラは秋から始まる大阪局制作のものの方が、なんとなく東京局制作よりもおもしろいような気がしています。

正直に告白すると、ボクは歴史が好きそうに語っていますが、ちっとも詳しくないのです。

とくにみんなが大好きな幕末や戦国時代が苦手です。

だって人の名前が多すぎる!



しかも名前が変わるんです。
お前こないだまで斎藤一だったんじゃないのか…!とか。まぁそういうわけで、ボクが歴史についてなんか語ってたら眉に唾して読んでください。

そんなボクですが、「あさが来た」で大久保利通が五代友厚に大蔵卿になってくれと頼んで、五代が断るシーンに「お!?」っと注目してしまったんです。

大蔵卿…卿ってなんじゃろ?
大臣じゃないのか?
どうも一番偉い人であることは間違いなさそうです。

でも大阪で「びっくりなかっぱ」作りましょうと頑張ってたのに横浜へ行けと言われたり、大阪に帰ってきたかと思えば大蔵省の一番偉い大蔵卿になれと言われたり、明治政府は人使いが粗い!

まぁ薩摩の人ですけん、気心もしれとったとでしょう。でもこれってコネですよね。

というわけでココからが付け焼き刃劇場ですよ。

まずいまでいう高級官僚が江戸城勤めの武士なわけです。もちろん彼らは感情のある人間でもあります。

彼らをクーデター同然に追い落としたのが薩摩長州の連合の人間に、シッポなんかそう簡単にいは振らなかったと思います。だって腐ってもサムライ、武士は食わねど高楊枝!

翻って明治政府はどうかというと、江戸城勤めの連中を採用するわけにもいきません。でも外国との戦いや戊辰戦争もあって、基本的に優秀な人材が不足していたはずです。

木戸孝允さんのようにうまく逃げ回っていた人は別ですが(笑)

さらに明治10年の西南戦争で薩摩が敗れたことで、優秀な人材は更に不足し、明治政府は「コネ」を頼ってひたすら優秀であろうと思われる人材をかき集めたはずです。そのあたりからは薩摩の連中とは〜とゴネてた侍たちのなかにも「じゃあいっか!」という空気が生まれてきたのではないでしょうか?

大久保さんと五代さんのお話のシーンは、大阪取引所が出来てないとすれば、だいたい明治10年頃なんじゃないでしょうか。(西南戦争が口の端に上ればもちょっと特定出来そうですが)

ちなみに東京帝国大学も明治10年にできました。

高級官吏(高級官僚)を育てるのが主目的です。

どうやら明治32年に官吏分限令(文官分限令)が発布されるまで、大久保さんが五代さんにやったようなヘッドハンティング的人事はできたようですし、実はその後もできた時期とできなくなった時期があるようです。

明治26年に高等文官試験が行われ、同年に文官任用令が公布されましたが、これは大臣や地方官が天皇に奏請(いかがでしょうと伺ってOKをもらう)して任命される奏任官の任用制度でしかありませんでした。

さらに上の地位である卿や大臣である勅任官(天皇が直々にあなたがやりなさいと賞状のようなものを渡すアレ)は、コネが効くと同時に、政党の猟官が厳しかったのです。

政党の猟官というのは、英語でspoils systemといい「スポイルする」という日本語から推測されるように、トップが入れ替われば部下もまとめてスポイルされるえげつない人事が行われるということです。

19世紀のイギリスやアメリカではそうだったらしいので、普通にマネしたのでしょう。

要するに

「奴ノコト甚ダ堪エ難シ」

「吾モ然リ」

「オオ!デハspoileセシメントス」

「メントス!」

「すっきりした!」

ということが上手くやれば今よりも楽にできたのです。

もちろん明治17年に大日本帝国憲法は公布されていたのですから、これはある種人間の欲が余地として残しておいたシステムの不備であるとも言えるのです。

まぁそんなシステムですので立派な人だけだったらいいのですが、人間ですので勉強はできても人品卑しい人も当然おったでしょう。

年功序列がすごく気にされていましたから。



歴史はいきなり飛んじゃいますが、そんな大日本帝国憲法のもと運用されていたシステムは、昭和20年まで続きます。

太平洋戦争に反対していたとしてなんとなく旧帝国陸軍より株が上のような感じがしている旧帝国海軍だって士官学校ではあっちが一年先輩だからという人事が行われていましたし、そうでなければ言う事を聞かなかった参謀たちがゴロゴロしているのです。

だからまぁ昔はよかったとか昔の人は立派だったというのは、全部否定することもないけどおんなじ人間のやってることだから、ちょっと眉に唾して聴きなさいよというお話になるわけです。

だって明治政府は江戸幕府の人たちを追い出したけど、昭和20年の敗戦で官僚の人事は戦犯を除いて、そんなに大きく変わってないんです。内務省は無くなりましたけど警察庁ができたのでそっちに移動したり…とにかく戦後の復興が第一でしたので、使える人員は全部使ったのです。

そして戦犯だった人も赦免されても戻ってきたりします。政治家として。


だから江戸から明治の転換に比べたら、大日本帝国憲法は無くなったけど、省庁を運営していた人たちは、あんまり変わらなかったんです。


とはいえ、まぁそれはしょうがない部分もあります。だってボクらはほどんどが幕末に「ええじゃないか!」って踊ってた農民の子孫なんですし。

農民は嵐が嫌いなのです。


波風は生活を壊しちゃうから。

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