マスケラを狩る者〈第一章〉薩摩半島


昭和二十年 十一月 一日
九州といっても十一月ともなれば冷える。
朝方ともなれば気温は十度を割り込み、息も白くなる。

眼前に広がる吹上浜は穏やかだ。

目線を水平線に移した俺は、彼方がもうもうとした排気煙に覆われ始めるのをぼう然と眺めていた。
「なんだってコッチに来るんだ。東京へ行けば早いだろうに。」
「高梨さんあんたバカだなぁ、物事には順序ってものがある。先にこっちを落としてからアッチに行くに決まってるだろう」

鈴井上等兵とはずっと仲がいい、とはいっても三ヶ月前に第四十軍に招集されて知り合ったばかりで、それまでは滿洲にいたらしい。俺も十五歳で父親が死ぬまでは朝鮮にいたので、内地とは違う育ち方をした同士でなんとなく気が合うと感じていたのだ。

「帝都は守りが堅い。先に九州の南側を陥落させれば、足の短い戦闘機や中距離爆撃機も、今よりもっと飛ばせる。こっちに来ないはずがないだろう。目の前の砂浜を見ろよ。絶好の上陸ポイントだ。」

ずっと前から分かっていた。

だから俺たちは軟弱なシラス台地に穴を穿ち、名ばかりの要塞とした。
「しかしながらであぁる!」鈴井が口調を変えた。
「我が帝国のぉ本土上陸に於いてぇ!圧倒的なる死傷者を出せばぁ!さしものぉ米国も怯みっ!これまでのぉ考え方をっ!改めるでぇあろぉう!」第四十軍創設時に檄を飛ばした辻参謀のモノマネをしているのだ。
参謀の言葉は一度聴いたきりだが、まぁまぁ似ている。周りの兵たちもそう感じているから、笑いが漏れる。鈴井もきっと心の底では怖くてたまらないのを圧し殺していて、おどけてでもいないとやっていられないのだろう。

「あんまり調子に乗ると上官に聞こえるぞ」
「なぁに、上手くごまかすって」
かるく肩をすくめると、浜の方へ目を向けた。

「まぁ大隅のほうが大変だろうが、こっちが手薄なのも否めない…俺たちは目の前の浜に敵さんを上陸させたら北へは逃げられない。まったく内地へ逃げて来られたと安心していたら、今度は北が塞がる…ついてないねぇ」

鈴井は俺より年下だが、半年前に招集された俺とは違って軍歴が長い。関東軍でいろいろ体験したのだろう。古参兵とも仲がよく、頼もしいと半ば頼っていた。


「上空!来るぞ」

誰がが叫んだ。

南から白い飛行機雲を引きつれた大群の爆撃機が上空に差し掛かる。きっとB-29だろう。墜ちた残骸しか見たことがないが、ジュラルミンに塗装をすることもなく、ただ銀色だった。臆することもなく機体をキラキラと輝かせたまま堂々と飛んでいる。

その大群に比べると頼りない数の影がノロノロと上がっていくが、群れに届く前に火を吹いて墜ちてゆく。
多分知覧から上がった迎撃機が、敵の直衛機に阻まれているのだ。

山向こうの加世田の高射砲部隊だけが頼りだが、B-29に届く八サンチ砲は首都防衛に宛てられているのだと聞いた。

やがて六時の方向からズシンズシンと振動が伝わってくる。指宿と枕崎に爆撃が始まったのだろう。

「下がれって!ココにも落ちてくる」鈴井に引っ張られ俺はもんどり打った。我に返り山肌に掘られた穴の奥に下がり、鉄兜を頭に押し付けて身を縮めた。ズシンズシンと、震える洞穴にゲジゲジが逃げ惑い、俺の体の上を這いずり回る。

だがそんなことは、些細なことだ。どうか軟弱な天井が崩れませんようにと祈る。

十五分ほど経ち静かになったと安心したのもつかの間、さらに大きな振動が洞穴を襲う。

きっと艦砲射撃だ。

ドカドカと柔らかな山肌を削ってゆく。
振動と爆音で右も左もわからない。

もうダメだもうダメだもうダメだ!


「神様…!」
「ほんとにバカヤロウだな高梨さん!神も仏もありゃしねぇよ」

直撃でなくても爆圧で肺が裂けて死ぬんだと鈴井が言っていた。目と耳を手で塞いで、口を開ける。

怖い、死ぬのが怖い。
いや、死なずとも腕や脚がもげてなお生きているのが怖い。
痛みと絶望の中でダラダラと為す術もなく血を流し、死んでゆくのが怖いのだ。

軍医はモルヒネはないといった。

だから小銃や拳銃の最後の一発は自分のために残しておけと。

そんなことができるだろうか。

誰かに殺されるか自分で死ぬか。
考えてみればずっと拳銃を持っていたのに、撃たれることは考えてなかった。

そのとき壕がズシンと大きく震えた。

「ぐ…」

声に振り向くと、同じ小隊の山地が、いや山地だったであろう肉塊が波打っていた。天井から落ちた岩に下半身を潰されたのだ。

鈴井が撃つと肉塊は動きを止めた。

「もう助からねぇ」
なぁ高梨さんと鈴井が口を開く。
「あんた警官だったんだってな。銃の扱いには他の新兵たちより慣れてるだろ?いざという時には頼むぜ」
「あ、ああ」そう答えたが自信はなかった。

交番勤務だった俺に、射撃の経験はほとんどない。

そのために俺と仲良くしてくれたのかもしれない…それでも鈴井を心強いと思った。

そんな日が二日続いた。

民間人が逃げ場を失って壕に飛び込んでくる。
こっちに来たって少し死ぬの遅らせるだけだ。
民間人たちは八人。モンペ姿の少女たちや老人、年端も行かぬ少年、それに妊婦が一人いる。
こんな時にも生まれようとする生命はいるのだ…

果たして生きて生まれて来られるのだろうか…
ふぅふぅ言いながら心配そうに膨れた腹を見ている女を横目で見ながら、せめてこの人は助けたい…いや生き延びられればいいなと願った。

「上陸してくる!」「砲撃準備!」
おびただしい数の強襲揚陸艦、上陸用舟艇が海を覆っている。
上陸用舟艇の全面が開くと敵兵が出てくる。

動いている。
俺達と同じ人間だ。

野砲が着弾すると、動いていた人間が動かなくなる。
俺達と同じだ。

こちらの機関銃弾が当たれば、敵兵も倒れる。
神様は公平だ。

問題は確率だ。
向こうの撃つ砲弾や銃弾の量が圧倒的に違う。
神様は不公平だ。

俺達の神様のほうが数が多いのに…

吹上浜に戦車が上陸し始めた時にもう勝敗はついていた。
誰もが逃げたかったが、堪えた。

敵の弾で死ぬか、味方の弾で死ぬか…
鈴井が火炎放射器を担いだ敵兵を撃つと、ボッと火の玉が転げまわる。
俺達だってアレを浴びればああなる。

そのときだった。大きな音と爆風で俺の思考は止まった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
キィンという残響が辺りを支配していた。

やがて機関銃座は沈黙していて、俺達には小銃と手榴弾しか無くなったのだとわかった。
我に返った俺は、横にいたはずの鈴井を探した。

手があった。
落ちてきた砂礫に埋もれた鈴井が、必死に手を伸ばしていたのだ。
「鈴井!大丈夫か」
砂礫をかき分け鈴井を引きずり出すと、鈴井はなにも言わず伸ばしていた手の平で顔を拭った。拭ったはずなのに、汚れた顔がさらに真っ黒になったように俺には見えた。
なにか、変だ。
笑っている。暗い壕の中で青く冷ややかに。


壕の左右から散発的にボン、ボンと手榴弾のこもった爆発音がする。
「あの音はなんですか?」

いつの間にか周囲に集まった民間人に尋ねられ、応えに窮していると、鈴井がこともなく「怯えた兵隊が手榴弾で自決してるのさ」と言い放つ。全員自分たちの置かれた立場を瞬時に納得したのだろう、私達の分もありますか?と問うてくる。


「死にたきゃココを出な!誰かが撃ち殺してくれるさ。なんなら俺が撃ってやろうか?」
「鈴井!そんな言い方をしたら民間人が怖がる」
苛ついているというふうでもない。これまでと打って変わってただ冷たい言葉を吐く。すでに切羽詰っているのに、鈴井からはまるで他人事のような冷たさや、むしろこの状況を楽しんでいるような気配さえ感じられて気味が悪い。

「高梨さん、オレはこんなところで死にたくなねぇ。自決なんてバカバカしいこたぁ止めて、逃げようぜ」
「逃げようったって上官が自決の見廻りに来るし、見つかったら後ろから撃たれるぞ」
「だからさ…」

「……まず味方から殺しゃいいんだよ」

腰から銃剣を取り出すや否や、照準を懸命に合わせている初年兵の背中になんのためらいもなく突き刺す。

「鈴井……!」
「こうしてけば後ろから撃たれる心配は、なくなるぜ」
その表情は恐怖で気が動転しているのか、それとも生に必死で取り憑こうとしているのか、少なくとも俺の知っている鈴井とはまったく違っていた。

「き…貴様!」
殺した初年兵の小銃を取り上げ、見通せる限りの仲間の背を撃ち、取り上げた手榴弾で遠くの壕の仲間を爆殺してゆく鈴井を止めようとするが、震えて小銃を向けることが出来ない。

まるで鬼の形相なのだ。

それほどまでに鈴井が変わってしまった。

「おい!お前ら腰縄で自分たちをつなげ」
老人二人とモンペ姿の少女二人を拳銃で指示し自分の周りに立たせ、それでも不満なのか残り三人の少年少女に囲ませる。

「そんなことをして……民間人を戦闘に巻き込むつもりか!?鈴井!それでも軍人か!?」
「オレはメシを食うために兵隊になった。メシを食うためには生きてなくちゃならねぇ。高梨さんだってそうだろう?」

そう言うと鈴井は拳銃を俺に向けた「高梨さん、軍服を脱ぐならこの輪に入れてやるぜ。オレはこうやって滿洲でも生き延びてきたんだ。どうする?」

「民間人を盾にして……!」

警察官だった俺が、戦場では声も手も脚も震えて何の役にも立たない。ただ妊婦のハァハァという声が背後から聞こえるだけだった。

「あんたが介錯人にならなくて良かったぜ。今みたい躊躇われたんじゃあな。躊躇わないってのは……」

「こういうことだぜ」銃口を下げパン!と撃った。

耳元で銃声が鳴って少年少女が驚くと同時に、俺の後ろで「ううっ」と悲鳴が上がる。
「大丈夫ですか?」
鈴井が撃った妊婦の太ももから出血している。
応急処置をしている間「ずみません……ずみません…うう…おい達が逃げてきたばかいに…」と丸い額に汗を滴らせながら喘ぐ。

俺は……この妊婦を死なせるわけにはいかない!少なくとも、オレの目の前では死なせたくはない!

しかしどうすればいい…このまま見逃しても盾にされた人達は助かるだろうか?鈴井の弾除けに利用されるだけで、俺が鈴井を撃とうにも俺の弾が当たってしまうかもしれない。

「行くぜ」

壕の出口に立った人間の盾を纏った鈴井の顔は、逆光で目だけがらんらんと光る冷たく青い仮面のようでもあった。
ブクブクと肥え太る生存欲求だけが肥大した、そんなものが仮面を……覆面をかぶっている。不気味だ。そんな鈴井は、もう自分と同じ人間だとは到底思えなくなっていた。

これは殺してしまったほうがいいのかもしれない……頭の片隅にそんなような思いつきが浮かんだ、その時……

妊婦の腹がふわりと光った。
鈴井の周り見え隠れする青く冷たい光とは違う、橙色の暖かい光だ。
だが直視することが出来ないくらい眩しい。


「これは私の役目です」という少女の声がした。

視線の先には、汚れていない白くて小さな足があった。
突然現れたのだ。
さっきまで、こんな娘は壕にはいなかった。
まとめられていない濡れた長髪を身体に纏わせた、服も着ていない16歳ほどの少女だ。


冷たく青く光る鈴井だった者だけならまだしも、橙色の光の中から裸の少女が現れるなど、尋常ではない。きっとこの二日間、監視だのなんだと突撃錠を摂らされ、ろくに睡眠もとれなかったせいだ。

その時、小さな唇が動き凛とした声で言った。
「お借りします」

少女はオレの手から小銃を取り、馴れた手つきで着剣すると、ためらいもなく鈴井を突いた。

鈴井は避けたのだが、少女の剣は、それを追うようにして手前の盾になっている少女や老人を斬ることもなく、鈴井の首を的確に刺した。

鈴井の動きが止まった。
少女は「確保」とつぶやき、鈴井の首に刺さっている剣を抜き、一歩右に歩み出て鈴井のアゴに切先をあわせる。
スッと上に撫でたように見えた。
あの鈍らな銃剣とは信じられないほど軽く、一直線に鈴井だったものの顔面が地面に落ちた。

冷たく青く光っていた鈴井だったものは、そのまま崩折れた。
間違いなく鈴井は、死んでいるのだ。

「小物だな」少女がそういうと、どこから現れたのか獺(カワウソ)のような小動物が鈴井の顔だったものを拾い、少女の後ろに回りこんだ。
俺と目が合うと、獺のような生き物はニタリと笑った。

今度こそ俺は頭がおかしくなったのだ。そうに違いない。
精神的に参ってしまってついに幻覚を見るようになってしまったのだ。そうでなくては今起きていることの説明がつかない。

鈴井だったものを囲んでいた民間人たちは、何が起こったのか分からないのか、ただ無表情に立っているだけだった。後ろの妊婦に「大丈夫か?」と声をかけても返事がない。

この壕の中で、俺と少女と獺だけが生きているのか、それとも俺は死んでしまったのからこんなおかしな光景を見ているのか……?
混乱に頭を抱えて膝を折ると、目の前に少女の膝があった。

恐ろしく整った顔が俺を見下ろしていた。

「き……キミは……三途の川の渡し守か?」
「私は……マスケラを狩る者」

ますけら……むしけらの方言だろうか……?言ってる意味がよく分からないが「俺は高梨、高梨公平一等兵……」そう応えた。

「高梨公平…あなたは命を大切にしてください」
そう言うと彼女の姿はぼんやりとし始め、やがて姿を消した。鈴井の顔を抱えた獺とともに。

やがて音が戻ると、米軍が乗り込んできたのが分かった。

〈第一章終わり〉

薩摩弁は「薩摩弁に換えもす。」を使用しました。

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