マスケラを狩る者〈第三章〉少女
ズシン
ズシン
ズシン
揺れが大きい。だんだん爆撃が近づいてくる……!
逃げなくては……だが動けない……足も体も……
鈴井!助けてくれ!俺は、まだ死にたくない……!
ガタン……
郵便受けから音がして目が覚める。
そうか…新聞配達が階段を上がってきたからか。
真っ暗だ。けだるい体を起こし白熱灯のコードを引っ張り電気をつける。
五時か……いつもより遅いな。
出勤までもう少し寝ていたかったが、夢見が悪かったせいで目が冴えてしまった。
「早起きは三文の徳……に、なるといいが……」
キンと冷えた部屋で体を起こし、電熱器でお湯を沸かす間に新聞を読むことにした。
出涸らしのお茶を淹れ、新聞を開くと一面に巨大な爆雲の写真と共に「ソ連軍 奉天で新型爆弾を使用」という見出しが飛び込んできた。
日本が米国に降伏した昭和二十一年一月八日以降、旧満州では中国が西滿洲國、ソ連が東滿洲國を擁立し、そのまま戦争へと突入した。関東軍や朝鮮にいた日本兵たちは、それぞれの国軍に編入され今も戦っている。厳しい監視の目をかいくぐり海を渡り逃れてくる朝鮮人や日本人たちから、そう聞いている。
「新型爆弾か……」米国が日本に使用する計画もあったという噂は聞いたことがあるが……こんなものがあるのなら、やはりあの戦争に勝てる見込みはなかったのだ。分かっていたことだ。
日本に使われなくてよかったと少し安堵したが、もしこんなものが自分達の上に落とされていたら……さっき見た夢が浮かび、冷たい汗がどっと噴き出た。
いまのところ米国は対岸の出来事として静観しているが、いつ何があっても対応できるよう日本各地の基地の強化に余念がないようだ。
春子のいた博多もそうだ。もともと席田(むしろだ)にあった陸軍の飛行場が米軍に接収され、人が住んでいた地域から住民を締め出し、何度も何度も拡張を繰り返し、いまや福岡市の東側約四分の一の地域が米空軍博多基地になっている。
いずれ米国も大陸の戦争に参加するのか、それとも中国とソ連の戦争がこっちへも飛び火するのか……そうしたらまず戦わされるのは俺たち日本人に決まっている。俺もきっと招集されるに違いない。
そうなったら、今起きている事件は誰が調べるのだろう。
「くそ……!」
手がかりが欲しい……また事件が起きてくれれば……
あるまじき考えだが、容疑者が浮かんでこないと、警官は多かれ少なかれこんなことを考えてしまうものだ。
冷めかけた茶を飲み干して着替えると、原町(はるまち)の宿舎を出た。
署まで行けば柔道の寒稽古用の食事があるだろう。
歩いて十分もかからないが、冬は七時を過ぎないと日が昇ってこないので、まだまだ暗い。
「おはよう」
一階の受付の警官に挨拶して、そのまま中庭の道場に向かおうとしたところで声をかけられた。
「高梨さんちょっと待っててください。いま島野さん達が来ます」
「俺まだ非番だから、先にメシ食わせてくれよ」
「それが……」
「スマン高梨くん!ちょうどいま呼びに行こくところやったんよ」
島野さんと相棒の井ノ口がドカドカと階段を降りてきて、そのままパトカーに乗せられた。
「現場は魚町四丁目の昭和館。通りとは反対の従業員通路。被害者は女性で、首がまだ見つかっとらん」
「島野さん!まさか……」
「まだ決まったわけやないけど、可能性は高いっちゃ」
俺は助手席で背筋を固まらせた。
昭和館は、幸運にも爆撃を免れた映画館で、俺も何度か行ったことがある。現場に着くと、すでに鑑識も到着していて、死体のある現場には入れなくなっていた。俺たちは第一発見者の支配人から事情聴取し、野次馬が寄ってこないように規制線を張り、他に怪しい人物を見たり、変な物音を聞いたりしていないか聴き込みを始めた。
視線……
視線を感じた。
野次馬の顔をさりげなく見渡す。
こういうときに妙にそわそわしていたり、目が合った瞬間顔を背けたり、逆に警官のことなど気にせず事件の現場方向を凝視してる奴は、怪しい。
容疑者でなくとも、なにか知ってる可能性が高いことが多いものだ。
だが、そんな奴は見当たらない……
だが相変わらず視線の気配は消えない。
目撃者なし……と手帳に書き込み、ため息をついて空を見上げた。
目を疑った。
薄暮の空を背景に、黒い人影が映画館の屋根に立っていたのだ。
少女だ!
少女が屋根の上から俺を見下ろしていたのだ。それが視線の主だった。
途端にあの時に引き戻された気がして、足がすくんだ。
あの橙色の光の少女が、また俺の目の前に現れたのだ。
心臓が早鐘を打った。
偶然にしては出来過ぎている。
あの時あの壕の中で起きたことと、この連続殺人は繋がっている。
警察官として、刑事として数年の俺にだってわかる。
いや、あの時あの壕にいた俺だから分かるのだ。
白が言っていた立ちん坊の中で広がっている噂「青い男」とはつまり……
捜査に予断が禁物なのは分かってる。だが人間としての勘が、どうしたってこの事件と少女は関係があると告げている。
「おい高梨くん、どこに行きよるんか?」
「すみません島野さん、ちょっとだけ……!」
そう言い残して現場を離れると、どこか屋上に上がれるところはないかと探した。
逃げないでくれ……話を聞きたい!
そう願いながら少し離れたところにあった電信棒の金具に足を掛けた。映画館と隣接する商店の屋根に登り、棟木の上をバランスを取りながら進もうとした。
少女は、もう視線の先にはいなかった。
俺は落胆し、うずくまった。
そのとき甲高い声がした。
「おまえまえにあったな」
足元の小さな影が喋った
「な……なに!?」
ビックリして棟木から足を滑らし、木造の屋根を踏み抜くところだった。
「カロン。何度言えば分かるのです」
少女はため息をついた。
「獣が喋ると人は驚きます」
「おもしろいじゃないか」
「人はこの高さから落ちると怪我をします」
「おもしろいじゃないか」
「打ち所が悪いと死んでしまいますよ。私たちとは違います」
「それはおれたちだっておなじだ」
いつの間にか俺の横に立っていた少女と、獺が喋っている……俺にはそう見えた。
「高梨公平……でしたね。あなたに話があります」
「はなしをしたってわかってもらえないぞ」
「少し黙りなさい、カロン」
間違いない……話をしている。そして彼女は俺を覚えていた。大丈夫だ……幻聴じゃない。そう自分に言い聞かせながら、話しかけた。
「お……俺も君に……聞きたいことがある」
「ほらなきくことしかできやしない」
「カロン……これは話をしたいという意味です」
「なんだよじゃあそういえばいいのに」
カロンと呼ばれた喋る獺のような獣は、俺を睨むと少女の足をつたい、するりと少女のスカートに逃げ込んだ。
あの時と違い、今度は少女は服を着ていた。
白白と明けゆく朝の光ではっきり見えた。
恐ろしく整った顔の少女はセーラー服を着て、左手には刀を持っていたのだ。
「き……君がやったのか……?」
「ほらなきくことしかできない」
いつの間にか少女の肩口にまで上った獺のような獣の嫌味を無視して、少女が答えた。
「私は……マスケラを狩る者」
「答えになってない。あの女性を殺したのは君か?と聞いているんだ」
「マスケラは従者です。マスケラを授ける主がいます。マスケラを狩り、主を見つけるのが私の職務。高梨公平、あなたもあの時見たはずです」
「君が鈴井を殺した……あれは本当にあったことなんだな」
「あれはもうますけらだったからな」
「もう一度聞く……あそこで女を殺したのは君か?」
「私はマスケラでない者は殺めないし、殺めることはできないのです」
そういうと鞘から刀を抜き、俺の眼前に突き出した。
「刃を触ってみてみてください」
か細い腕が支える切先は、ぴたっと止まり微動だにしない。
少女に言われるまま恐る恐る手を伸ばした。なぜか斬られるとは思えなかった。そういう殺気を感じないのだ。
「なんだ……これは?」
切先に触れたはずの手が宙をつかんだ。
もう一度触ろうとしたが、切先に触れることが出来ない。
「はははますけらじゃない」
獺のような獣が甲高く笑う
「そ……そうか……じゃああの時、鈴井を狙った銃剣が、手前の民間人を傷つけなかったのは……」
「私が持つ刃物はマスケラしか斬れません」
恐ろしく顔の整った少女が表情一つ変えずに頷く。
「私はこの街に潜んでいるマスケラを追っています」
なんてことだ……これは警察が捕まえられるような相手じゃない……だが警察官として人殺しを放って置くわけにもいかない。
「多分……青い男だ……立ちん坊たちの間で噂になっている青い男」
「立ちん坊?」
「知らないのか?」
「こいつはますけらのかりかたしかしらないけけけ」
「黙りなさい、カロン」
ほんの少しイラツキを感じさせる声で少女が獣を叱った。
「あなただって、狩ったマスケラを門の向こうに運ぶことしか出来ないでしょう?」
どうやらこの少女と獺のような獣は、与えられた職務以外のことを知らないのかもしれない。だが俺が聞きたいことは、知っているようだ。
「分かった……できたらもっと話をしたいんだが、このまま屋根の上でずっと……ってわけにもいかない。俺もこれから署に行かなくちゃならないし、どうだろう……良かったらご同行願えないだろうか?」
「署……?」
「しょ?」
「うん、俺の仕事場だ。別になにもしやしない。俺も朝飯がまだだし、メシでも食いながら、情報交換をしないか?」
「メシ?」
「めし!!!」
獺のような獣が興奮して少女の首元をぐるぐると回る。
「はらがへっためしがくいたい」
「落ち着きなさい、カロン」
よく見ると少女の着ているセーラー服は襟元もどこもボロボロだ。
着替えも用意してやったほうが良さそうだ。
じゃあと俺がゆっくりと屋根を降りると、少女はふわりと飛び降りた。
驚いた……まるで重さがないような身のこなしだ。
慌てて周りを見たが、誰にも見られてはいないようだった。
とりあえず署では事件を目撃した戦災孤児ということにして通すことにしよう。
形(なり)はそれで誤魔化せそうだが……
「しかし……その刀はまずいな……どこかに隠しておけないか?」
「問題ありません」
少女が刀の柄を脇に当てると、刀だったものが松葉杖に変化した。
「これはもともとこういうものです」
喋る獺のような獣
恐るべき身のこなし
松葉杖に変化する刀……いや少女の説明だと逆か……
正直受け止め理解できるものではないが、俺はもう関わってしまったのだ。それにあの時の呪縛を解くためには、この事件をなんとかするしかないではないか。
ふう……と息を吐いて歩き始めた。
俺の後ろをついてくる少女が、カロンと呼ぶ獺のような獣に「お前は絶対に口を利いてはだめです」「それから人の話に頷いたり、バカにして笑ったりするのもダメです」と、小声でいろいろ言い含めていたから、この五年間そういうことで困った事態になったことはあったのだなということだけは分かった。
島野さんに目撃者らしき少女を一人見つけたので、先に署に戻ると告げた。途中でふと気になって、周りに誰も居ないのを確認して声をかけた。
「なぁカロンといったか……かれは何を食べるんだ?」
「さかなをたべる」
「喋るなといったでしょう」
「大丈夫だ、周りには誰もいないから」
「カロンは魚を食べます。魚ならなんでも」
「いきたさかながいい」「あたまからたべるのがとくにいい」
「生きているのはなぁ……死んだやつでも……いいか?」
「いきてるほうがいいがしんだのでもいい」
「分かった。買ってくるからここで待っててくれ」
「はやくだぞ」
俺は旦過マーケットに走った。
夜が明けたばかりだが、朝食を摂りに来た労働者たちが席を立ち始めていた。
白はまだ来ていないようだったので、また事件があったので心当たりがあるなら連絡をするよう魚屋に伝言を残し、それから別の店で自分用と少女用の弁当も買った。
橙色に光る少女の好物を訊かなかったが、人の形をしているのだから生魚を頭から齧るはずはあるまいと、かしわ飯にした。
田町の小倉署まで歩く間、少女の襟の奥からずっと「さかなさかなさかなさかな」と小さな甲高い声がしてして、恐ろしく顔の整った少女の眉間にほんの少しシワが寄っていた。
ますます恐ろしい顔になってしまっている。
俺は不可思議で恐ろしい事件のまっただ中にいる。
朝の冷えた空気の中で、それを実感してブルルと小さく震えた。
〈第三章終わり〉
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