まっすぐ

「真っすぐにいる」ことの質感 | 松田 素子さんのお話を聞いて


神戸学校というパブリックなイベントが、会社主催で毎月開かれています。

”神戸学校は1995年の阪神淡路大震災をきっかけにスタートしました。 「崩壊した建造物の修復はできない我々にも、人々の心の復興につながるようなことならできるかもしれない。」そう考え、神戸発未来へ「経験と言葉の贈り物」をコンセプトとした講演会(メッセージライブ)を開催しようということになりました。”

http://www.kobegakkou-blog.com/blog/about.html

9月のゲストは、絵本編集者の 松田 素子さん。心の奥のものがドワッと引き出されるような2時間でした。

画像1

https://www.ehonnavi.net/specialcontents/contents.asp?id=413 より



” 真っすぐにいること ”

松田さんのお仕事は「絵本の編集者」。世にたくさんある絵本は「編集」という工程を経て本屋さんに並べられるようです。

はじめての持ち込み原稿へ感想を伝えるときには「人生ではじめての量の脂汗が出た」という松田さんですが
さまざまな作家さんを担当されるなかで「これ、はじめから書き直しましょうか」と伝えることもしなければいけない、というお話から。


何か月、いや、下手すると何年もの時間をかけて書かれた絵を
「これ、イチから書き直しましょうか」と伝える。伝える相手への敬意を持ちながらそれを伝えることは、それを伝える側が試されているなあ、と感じました。編集者の一言で、もしかしたら何年もの努力がお蔵入りになるわけですから。
(実際にそんなやり取りもたくさんあったようです)


松田さんは愛情あふれる人だと印象が強く残ります。派手な感情表現はきっとされないのだろうけれど、
ウェットじゃない、けれど、目の前のひとの物語を共有し、そこに没入し、
そして、時には自分の人生の一部を関わらせることも厭わない。
そんな種類の愛情を感じる人に感じました。


そう、「時にはわたしの人生の一部を関わらせることを厭わない」というエピソードがたくさん登場しました。

大人になるとこれが難しいです。「わたしはわたしの領域で」ということができるわけで、わざわざ越境して関わっていくということは、本来的に、どこか、定住し安定を求める本能と相反する振る舞いなのだろうと感じます。


「わたしが向いているのは、やっぱり絵本を読む人の方向なのです。それは、子どもたちの方向、ということです」

「絵本の題名というのは ” この立ち位置からこの本を読んでね ” というメッセージなんです」


深いレベルの、損得勘定を超えた全方位への愛情と、それと同じくらいのエネルギーが必要であろう子どもたちへの姿勢。
その2つを持ちながら、時には、それもきっと、深い愛情を抱いておられるであろう作家さんに「最初から書き直しましょう」と伝えることができる資格は、「人間として真っすぐにいること」だと、松田さんはおっしゃられました。


「わたし自身がぼこぼこだと、まっすぐに跳ね返せない。だから、人間として真っすぐにいることが大切だと思っています。編集者として。」


短い言葉だったんですが、ぼくは松田さんの「真っすぐにいること」を受け止められるのか、という気持ちで、2時間話を聞くことになったのでした。


真っすぐでいること、そのことを支える姿勢・・。それは、ご自身の人生のつかいかたのようなものから、エネルギーのように現れる姿勢だと思ったのです。

憧憬である「真っすぐさ」というのは、こんな意識の傾注がされる人生のうえに立ち上がるのか。
ぼくが、ドワッと引き出されたものは、このことでした。


松田さんが真っすぐにいるために


数々のヒット作を手掛けられ、きっと「先生」とよばれる生き方もできたであろう松田さん。
いままで関わってこられた作家さんの名前は、まったく絵本への造詣の深くないぼくでも知る名前ばかりでした。そしてその方々にも深い愛情をもらっていないとできないであろう体験も、たくさん披露くださいました。

近年フリーランス編集者になられた松田さんが最も注力されていることは「みんなで絵本を深く読み込む時間をつくる」ということだそう。

この話を聞いたとき、もう、感動しちゃって。
(来られた方にはわかるかも、松田さんがほんとうに印象深いエピソードを話されるときの口癖が「もう、感動しちゃって」だったんですけれど、それと同じテンションで)


「いま、すごく危機感のようなものを感じています。それは、元来 絵本にかかわる人間が持っていたであろう、子どもたちという未来に対する 願い、祈りのようなものを、経済が木っ端みじんにしているような気がしていて」


よく聞く言葉です。憂いている人はたくさんいるのです。
けれど、松田さんはその憂いを「受け止め」そして「みんなで絵本を読み込むことを選んだ」



この言葉にこの絵をつけた意味、この色をそえた意味・・

松田さんがつくる時間は、そんなことが延々と話されるんだそうです。

憂いを「受け止め」そして「みんなで絵本を読み込むことを選んだ」ということ、なんだか松田さんを象徴するエピソードに聞こえました。

” 黙ってたほうが、なんか、プライドが保たれる気がするんだ。
こんなことに傷ついてない、なんとも思ってないっていう方が、人間の器が大きい気がするんだ。でも、それは違う。大事なことがとりこぼされていく。人間は傷つきやすくて壊れやすいものだっていうことが。傷ついていないふりをしているのはかっこいいことでも強いことでもないよ。あんたが踏んでんのは私の足で、痛いんだ、早く外してくれ、って言わなきゃ ”
 - 『僕は、そして僕たちはどう生きるか』 梨木香歩 著


「これは自分のことじゃない」と、手放さない。わたしは怒っている、と、その感情を受け止める胆力。
けれど、猛々しさのなかに感情を置くことは選ばず「みんなで絵本を深く読み込む」。
ひとりではなく、みんなで。時には自分の人生の一部を関わらせることも厭わない。


ああ、これが真っすぐか、と。またまたですが、ぼくが、ドワッと引き出されたものは、このことでした。



松田さんの憂い方に現れる「真っすぐでいること」


ぼくには松田さんの「絵本を深く読み込む時間をつくっています」という言葉が、憂いを関わるひとに必要な姿勢が詰まっていると感じたんですよ。

まずは、じぶんのことだと引き受けること。越境すること。時には自分の人生の一部を関わらせることも厭わないという、
やれやれでもいい、覚悟。

そのうえで、猛々しさのなかに感情を置くことは選ばずにいること。


地球が壊れているとしても、安倍政権はさっさと退場しないといけないにしても、どうしようもなくムカつく毎日だとしても
なにかを真剣に「変えたい」と願う人が身に着けるべき振る舞いは、この松田さんがおっしゃる「真っすぐさ」なんじゃないかなあと思うのです。

「もう一度、書き直しましょう」と伝えられるに足る振る舞い。


「真っすぐとはなにか」に、スパッと歯切れのよい答えは出せませんが、質感のようなものにさわれた。
そんな神戸学校でした。



脈略なく恐縮なのですが、大好きな作家である梨木果歩さんからいつも感じることは「真っすぐさ」だったのですが、それが「どんな質感で、どんなふうに 梨木さんのなかに存在しているのか」が、わからなかった。お会いしたこともないんだもん、そりゃあね。

松田さんのお話は、梨木さんを読むたびに感じていた「真っすぐさとは、なんなんだ」に、大きなヒントを、いやもうもしかしたら答えを示してくださる時間でした。

人生の一部を関わらせることも厭わずにいれるように、諦めずに過ごせたら。そんな姿は憧れだなあと思います。

難しかったとしても、そういう姿勢で生きていくことは可能なんだということは、忘れないようにしたいなあと、思います。


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