【小説】雨の夜を越えて~UTMF2016、それぞれの闘い(1)

序章

2016年9月 UTMF開会式会場

会場は一種異様な空気に包まれていた。
小雨の降るスタートゲート前には、旅立ちの時を待つ約1400人の選手たちが熱気とともにひしめいている。
彼らにとっては、この程度の雨は大した問題ではない。
これから始まるはずの長く厳しい冒険に挑戦するために、幾多の試練を乗り越えてきた猛者たちなのだ。
多少の雨ならば、彼等の熱気で吹き飛ばしてしまいそうだ。
しかし、つい先ほど発せられた大会実行委員長である鏑木毅の言葉が、彼等に、失意と、決意と、その他諸々の想いを呼び起こさせていた。
山岸健太もまたその中の一人だった。
悲願の完走を果たすべく、一年の時を経て再び手に入れることが出来たこのスタートラインに立つ権利。
しかし、その全コースを走り抜くという願いは、この瞬間に絶たれた。
2016年9月23日。
UTMF~ウルトラトレイルマウントフジ~そのスタートを待つこの時。
本来ならば、健太たち1400人余りの精鋭たちは、富士山の周囲にある山々を一周する167kmの旅に出るはずだった。
しかし、ここ数日続いていた雨の影響で、距離の短縮が発表されたのだ。

2016年9月20日朝9時の天気図(気象庁HPより)

3日前の9月20日。
大型の台風16号は関東から東海地方を通過、付近に大量の雨を降らせた。
翌21日、台風は通過したものの台風一過とはならず、秋雨前線が活発化し、太平洋岸では雨が続いた。
この結果、コース終盤の本栖湖に近い竜ヶ岳など一部の山岳コースが使用不可能になり、その部分を迂回し麓のロードや林道を辿るするルートに変更、距離は169kmとなる発表がなされていた。
しかし、その後も雨が降り続いた。
大会前日となる9月22日には、一旦曇り時々小雨の天気となったが、夜には再び雨が降り始めていた。
日が変わった直後の深夜には、富士市と富士宮市に大雨警報が発せられ、コース後半の核心部である天子山地は大雨に見舞われていたのだ。
会場では、前日の9月22日から予定通り選手の受け付けを行う一方で、大会本部では情報の収集と関係機関との協議に追われた。
一旦はコース変更により開催することで調整が整ったのだが、その後も降り続く雨のため、開催直前までその作業は継続することとなった。

UTMF2016コースマップ(当初の予定:UTMFのHPより)

 大会のコースは、富士河口湖畔にある大池公園を起点に富士山をぐるりと一周する。反時計回りに精進湖、本栖湖、朝霧高原を経て、前半の難所、天子山地に入る。その後、富士宮から富士山こどもの国、コース最高標高地点の太郎坊へ至る。その後、後半の核心部である石割山、杓子山を越え最終ボス霜山を越え、再び河口湖大池公園へと戻ってくる。100mileを越え無数のピークを越える壮大なルートを辿るのだ。
 この、コース中間部にあたる静岡県側で、特に天気の影響が大きく出ていた。登山道や林道の管理者からは、現地の安全確認がとれない限り選手を通すことに許可を出せないと連絡が届いている。
 このため、大会当日もまた、大会本部は事前に確認していた危険予想箇所5ヶ所に調査隊を派遣、現地の状況調査に乗り出していた。


大会前日

健太、愛海、そして諒と絵莉

丹沢山塊の菰釣山より富士山を望む(イメージ)

大会前日、健太は恋人の愛海とともに、友人の諒の車で受付会場に乗り込んでいた。
正確には、恋人というにはまだ遠いかもしれなかったが、ただの友人以上であることは間違いない、と健太は思う。俗にいう、友達以上、恋人未満、といったところだろうか。
ふたりは、よく一緒に山を走りに行く。
今回サポートに付いてくれることになった諒と絵莉を合わせた四人がいつものメンバーだった。
その諒と絵莉は恋人同士。年齢的には既にいい年の二人だが結婚はしていない。
この世界では、なぜか独身やバツ持ちが多い、と健太は思っていた。
もちろん、そうでない人も大勢いるのだが。
そのせいか、愛海とのことも、とくに焦ることなく一緒に行動していた。
そのことを、当の愛海はどう思っているのかは判らないが、愛海は健太たちに誘われると、嬉しそうについてくる。
もともと愛海はロードランナーだったのだが、健太たちと一緒に山を走り、大会に参加しているうちに、全国のトレイルランナーが目指すこの大会に参加するまでになっていた。
元々素質もあったのだろう。いくつかの大会を経験した後で、愛海は、UTMFの半分の距離を走るSTY~静岡から山梨~のスタートラインに立つ権利を掴んでいた。

愛海は、健太と一緒にこの大会を走れることをとても喜んでいた。といっても、健太が参加するUTMFは富士山の周囲をぐるっと一周する。そこそこ走ることができる健太が順調に進めば、愛海が参加するSTYがスタートするよりもずっと早くにSTYのスタート会場である『富士山子供の国』を通過するので、ふたりはフィニッシュするまで会うことはない。
それでも、愛海は健太と同じコースを走れることが嬉しかったようだ。
そんなふたりを応援するために、諒と絵莉は、ふたりのサポートをすることを決めた。

諒と絵莉は、健太たちと同じトレイルランニングチームのメンバーで、ふたりとも健太たちよりも少しずつ年上だった。そのせいか、健太たちのことは先輩として見守るような気持ちがあった。
諒はSE、絵莉は外資系に勤めており、ふたりとも生活に不便はなく、お互いに自立した生活を送っている。
そして、週末になると一緒に山を走る生活を送っていた。
ふたりは、自分たちのことは棚に上げて健太と愛海の関係を気にしていた。とくに、絵莉は愛海はこのままでいいのかしら、と、愛海たちを見るたびに思っていた。
私?私はこれでいいのよ。なにも不便はないし、今さら結婚なんてしても面倒が増えるだけだわ。
笑いながらそんなことを話す絵莉を、諒もまた笑って見ていた。
自分たちには結婚は必要ない。そう思う二人だったが、年下でどこか揺れ動くような健太たちふたりのこととなると別のことなのだった。
そして、今回もまた二人の完走と進展を期待して、全面的にサポートをすることにした。
大会前日の木曜日の午後、四人は、諒の運転するランドクルーザーで、受付会場のある河口湖の大池公園へと到着した。

受付会場

小雨の受付会場

9月22日木曜日。
曇り。
川口湖畔にある前日受付の会場は思ったよりも人が少ない。
午後からスタートする大会当日でも受付できることから、おそらく多くの人は当日乗り込みで受付をするのだろう。その方が仕事を休まなくてよいし、旅費も安く済むからだ。
ただ、早めに現地入りしていた方が、事故や渋滞を気にする必要もないし、早朝に起きる必要もなく、スタート直前までゆっくり休んでいられる。
都合さえつけばメリットは多いのだ。
一年前のリベンジを誓う健太は、抽選による出場が決まるより前から早々に休暇を宣言し、半ば強引に仕事を休んできていた。万全の状態で臨みたい。健太の中では、その思いがすべてに優先していた。
愛海もまた、勤務先をけむに巻いて休暇を取ってきたと言っていた。ただ、それは普段からしっかりと仕事をこなしている彼女だから可能なのだろうと健太は思っている。しかし、ひょっとしたら普段から周囲をけむに巻くのが得意なだけかもしれないのだが。
諒と絵莉は、以前から健太からこの大会に掛ける決意を聞いていた。そして、健太と愛海が当選したことを知り、健太がレース中のサポートを希望していたこともあって、なんとか仕事の折り合いをつけてきたのだった。

「思ったよりも少ないのね」
「そりゃあね、木曜日だし」
スタート直前の熱気に溢れた会場の様子をイメージしていた絵莉がつぶやくと、諒がまっとうな返事をした。
その諒を軽く睨んでから、まあいつものことね、と絵莉は軽くため息をつく。
たいていの場合、トップランナーの多くは混雑を避けて前日に受付を済ませる場合が多い。とくに、海外からの有力選手は、日程にゆとりを持ってくるので、前日に来る場合が多いのだ。そして、そんな有力選手の周辺では軽く人だかりやささやき声が聞こえてくる。
それが、今日は全くと言っていいほど見当たらない。
「それにしても、もう少しいても良いように思うけどね」
空を見上げる絵莉につられて、諒もまた空を見上げる。
昨日までの大雨は過ぎたものの、相変わらず空は今にも泣きだしそうだ。
「参加を見送る選手もいるのかなあ」
天気予報は、決して良いとは言えない。
台風は通過したものの、台風一過とはならず、むしろ台風が持ち込んだ熱帯の熱く湿った空気の影響で、秋雨前線が活発化している。
下手をすれば、大雨や雷雨の可能性すらあった。

この大会は、昨年もまた雨に祟られている。山間部では泥の渓流と化した登り斜面で大渋滞が発生し、コース前半の富士宮エイドでは400人以上の選手が制限時刻に間に合わずリタイアとなった。
この大会に参加する選手は、おそらく誰もがそのことを知っている。あの惨状を思えば、参加を回避することもありうるだろうと諒は思った。
そして、健太もまたその渋滞に巻かれてリタイアした一人だった。
しかし、当の健太はむしろ「今年こそは」という思いの方が勝っている。後方を走っていて渋滞に巻き込まれ、リタイアを余儀なくされたことがよほど悔しかったのだろう。いつも遊び半分だった健太が、それからは真剣にトレーニングに取り組むようになっていた。その甲斐あって、去年までは完走が目標のギリギリランナーだったのが、今ではどの大会でも全体の真ん中あたりの順位で完走できるほどまで走力を上げていた。
諒の目から見ても、実力的には十分完走が可能だと思えた。
「明日、天気が回復してくれないかなあ」
諒はそうつぶやきながら、スマートフォンの天気予報を開く。
画面には、無情にも傘のマークが踊っていた。

「どうだった?」
「完璧無敵」
健太が受け付けを終えて戻ってくると、諒が声を掛けてきた。
それに冗談めかした返事をする健太に、おお、よろしく頼むぜ、と諒は笑って見せる。
その健太に続いて、愛海も二人のところへ戻り、四人で輪になった。
「何をチェックされた?」
「ええと、俺は地図と、携帯と、レインウエア上下。それと、ライト二個と予備電池、夜の点滅ライト、エマージェンシーシート、かな。」
「うん?みんな同じじゃないの?」
「うん、なんか何種類かあったみたいだけど、気のせいかな」
あまり経験のない愛海が健太に色々と訪ねはじめた。
その様子を見ていた諒が声をかける。
「まあ、とりあえずオッケーね。
 じゃ、ここにいても何だから飯でも食いにいこうか」
天気が微妙なだけに、雨が降り始める前に二人をどこかに避難させたい。
また、去年のことや天気のことで、できるだけ健太を刺激したくない。
諒はそんな思いで健太たちを車に乗せた。
絵莉もまたそんな諒に従い、さ、いくよ、と、二人を笑顔で導く。
四人を乗せたランクルは、静かに公園の駐車場を出発した。
しばらくして、公園には、空から再び小さな雨粒が落ち始めた。

夜になると、再び雨は降り始めた。
その雨は、健太たちの思いとは裏腹に緩急をつけながらも降り続く。
そして、四人が寝静まるころ、コース上に当たる静岡県の富士宮市では大雨警報が発令された。
雨は静岡県側でとくに激しく、昨年多くの選手たちを飲み込み絶望の淵へと追いやった天子山地にも、当然のように激しい雨が降り続いていた。

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