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「浪花百景」のいまを訪ねる⑤

御勝山と舎利寺(生野区編)

前方後円墳だった御勝山古墳


「御勝山」(芳雪画「浪花百景」より)
フェンスに囲まれた御勝山古墳の後円部。絵に描かれているほど標高は高くない

 1600年前から1500年前ごろの大阪平野は、河内潟と呼ばれる海だった。唯一の土地は、河内潟に半島のように突き出た上町台地。そのため、大阪市内にある古代遺跡や史跡の多くは、上町台地上に存在する。
 上町台地の北端は現在の京阪天満橋駅辺り、西が松屋町筋周辺で東は平野川沿い。実際にたずねてみるとわかるが、天満橋駅から土佐堀通をわたると急な坂道や階段になっている。松屋町筋沿いには「天王寺七坂」という、これも急な坂道がある。平野川から西側も、天満橋や松屋町筋ほど急ではないにせよ上り坂になっている。
 この勾配によって、上町台地の高さを実感することができるわけだ。そして、上町台地の東端近く、生野区勝山北にあるのが御勝山だ。
 御勝山の最寄り駅はJR大阪環状線の桃谷駅。南口を下りてすぐのところにアーケード通りの桃谷駅前商店街があり、そこを東へ道なりに歩く。雑貨店や八百屋、魚屋などの生活に欠かせない店や、「ちょっと一杯」といった雰囲気の居酒屋にラーメン店、韓国料理店などの飲食店が軒を連ねる、バラエティに富んだ通りである。
 10分ほど歩くとアーケードが途切れ、「疎開道路」と呼ばれる広い道路に出る。この道路をわたって、すこし進んだところにあるのが「つるのはし跡」だ。ちなみに、疎開道路を北に行くと大阪コリアタウン、さらに北へ進むと鶴橋商店街に到着する。

つるのはし跡の公園と石碑

「日本書紀」仁徳天皇14年の条に「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記されており、これが日本で最古の架橋の記録とされている。この「猪甘の津」とされるのが、つるのはし跡のあるかつての猪飼野地区。「小橋」と呼ばれた橋には鶴が多く集まったため、江戸時代ごろから「つるのはし」と呼ばれ、それが鶴橋という地名の由来だとされる。
 つるのはし跡から約10分南に歩くと勝山通に面した生野区役所があり、すぐそばにあるのが御勝山。この御勝山、じつは古墳であり5世紀後半ごろに造営されたとされる。前方後円墳だが前方部は明治時代に切り崩されてしまい、さらに前方部と後円部は勝山通で分断されてしまう。現在、古墳としての原形をとどめているのは後円部だけで、フェンスに囲まれていて立ち入ることはできない。
 この後円部付近が御勝山公園、勝山通を越えたところにあるのが御勝山南公園だ。ちなみに「御勝山」という名は、大坂冬の陣で徳川秀忠が陣を敷き、勝利を得たことが由来する。

聖徳太子からわたされた仏舎利を祀る舎利寺


「舎利寺」(芳瀧画「浪花百景」より)
住宅街の中にある舎利尊勝寺の山門

 御勝山南公園から400メートルほど南の住宅地にあるのが舎利寺。正式名称は南岳山舎利尊勝寺である。なお、グーグルマップで「舎利寺」と検索してルートを指定すると、寺とは関係のない場所に誘導されてしまうのでご注意を。
 舎利寺は、用明天皇の時代(585年~587年)に創建されたという古刹だ。言葉の話せない子どもを持つ生野長者という富豪が聖徳太子に助けを求め、太子は生まれる前に預けた仏舎利返すよう子どもに伝える。すると子どもは口から仏舎利3つを吐き出し、太子は1つを法隆寺、もう1つを四天王寺、残りの1つを生野長者にわたす。長者は仏舎利を祀るために舎利寺を建てたとの伝承が残る。
 門前に建てられ石柱には「安政南海地震」で亡くなった人を回向するもので、正面には「永代常念經回向」、側面には「為地震津波横死建之」と刻まれている。

山門横の石碑

 また境内には西国三十三ヵ所観音霊場の簡易版が設けられている。これは霊場めぐりができない人のため、1852年に設置されたものだという。

江戸時代末期に設けられた西国三十三カ所観音霊場

  生野区といえば鶴橋駅付近の焼肉ロードや市場、そしてコリアタウンをイメージする人が多いだろう。それもけっして間違いではないが、5世紀や6世紀といった古代からの歴史も有する。そんな生野の一面を知ることができた、今回の散策だった。



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