武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉛

ベトナム派兵におけるアメリカの工作と失敗

すべてを白日の下にさらしたジャーナリストたち

 ベトナム戦争でアメリカ軍はなぜ負けたのか? その理由は多々あるが、1つは「開かれ過ぎた報道」だといわれている。
 ベトナム戦争はもっとも報道が自由だった戦争だとされ、ラオス進攻など報道規制が敷かれた作戦もあったのだが、大部分は記者の従軍を許していた。北ベトナム軍も同様だったがため、ベトナムには米ソはもちろん、日本を含む世界各国から記者やカメラマンが押し寄せた。
 そこで目にした戦地の情報は写真や記事を通じて世界中に伝えられ、史上初のテレビ中継も行われている。そうしたメディアを通じ、世界の人々はベトナムの生々しい現状を知ることができたのである。
 だが、この開かれた報道体制は、アメリカにとってプラスにはならなかった。
 たしかに第二次世界大戦では、戦地の現状をプロパガンダに利用してはいた。それでも必ず検閲は入るし、ショッキングな場面は敵軍の残虐性を捏造・膨張するときか、国民の敵愾心を煽るくらいにしか使われない。
 しかし、ベトナムに従軍したジャーナリストたちは、負の部分も赤裸々に報道した。北撃で破壊された町並み、戦闘に逃げ惑う民衆、ソンニ村の虐殺事件。日本人カメラマン沢田教一が撮影した川を渡って逃げる親子の写真は、「安全への逃避」という題名でピューリッツァー賞を受賞している。
 やがて、白日の下に晒されたアメリカ軍による被害の数々に、人々は戦争の大義に疑問を抱きはじめ、アメリカ国内でも反戦運動が活発化していった。反戦運動の原動力は戦死者の増大ではあったのだが、報道陣による「逆プロパガンダ」も反戦世論を後押ししたのは間違いないだろう。

でっち上げだった「トンキン湾事件」

 さらに、過熱する報道はアメリカ軍の工作活動まで暴くことになった。
 1964年8月2日、ベトナム北部のトンキン湾を航行中のアメリカ軍駆逐艦マドックスが所属不明の魚雷艇3隻の攻撃を受けた。当時のベトナムは社会主義の北ベトナムと親米の南ベトナムに別れ、アメリカ軍は南側を支援するべく、軍事顧問やCIAを派遣。海軍も沿岸部で情報収集にあたっていた。そんな緊張状態の最中に、アメリカ軍への攻撃が行われたのである。
 戦闘で駆逐艦に損害はなく、魚雷艇は1隻が大破、2隻が小破して退却。北ベトナム海軍の仕業と断定したホワイトハウスは警告を送ったものの、8月4日に駆逐艦「ターナ・ジョイ」と航行中のマドックスがまたも北ベトナム軍の艦艇と思しき目標と交戦した。
 北ベトナムは、2日の攻撃こそ南ベトナム軍の軍艦との誤認だと認めたが、4日の攻撃については全面的に否定。だがアメリカは事件時に傍受した北ベトナム軍の通信を証拠として公開し、海軍基地への報復爆撃を決行するとともに、8月7日の「トンキン湾決議」でベトナムへの本格派兵が決定した。
 つまり、アメリカ軍の攻撃は「トンキン湾事件」と呼ばれる卑怯な奇襲攻撃のせいだ、というのが当時の論調だった。
 リメンバーパールハーバーと似ていたためか、開戦当初の世論は派兵賛成が多数だった。しかし本格参戦から7年後の1971年、大手新聞社「ワシントンポスト」と「NYタイムズ」から意外な真実が公表された。トンキン湾事件はアメリカのでっちあげだったというのである。

大義を熱望していたホワイトハウス

 NYタイムズのニール・シーハン記者によると、軍の機密文書の執筆関係者とコンタクトを取った彼は、その写しを入手。機密文書の名は「ペンタゴン・ペーパーズ」、正式名称を「ベトナムにおける政策決定の歴史1945-1968」といい、トンキン湾事件における真実が記載されていた。新聞本社はさっそく特別チームを編成し、ワシントンポストも同様の写しを入手。両社はスクープとして新聞に掲載したのである。
 記事によると、事件の真実はこうだ。
 1回目の攻撃は本当に北ベトナム軍の誤認攻撃だったが、2回目の攻撃はレーダーの不具合による誤認だった。しかも証拠とされた通信内容も翻訳ミスが多く、証拠としては不十分であった。
 にもかかわらず、アメリカ政府はこの情報を握りつぶし、開戦の口実として利用。リンドン・ジョンソン大統領は「共産主義の拡大防止とベトナム内戦終結」を戦争の大義とし、派兵の理由は北ベトナム軍の先制攻撃とした。
 まさにベトナム戦争は、アメリカの工作と謀略ではじまった。さらに戦争終結への見通しがないことも記事内で暴露され、国内世論は反戦へと傾くことになる。
 アメリカが尊ぶ自由が逆のプロパガンダを招き、工作をも破綻させるとは、まさに皮肉な結果である。

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