太平洋戦争はこうしてはじまった56

経済制裁への温度差


 日本は、南進による米英の武力行使はないと踏んでいた。しかし財産凍結と経済制裁を予想していたかは諸説ある。予想外だったとするのが通説だが、一部の将校は想定内だったようだ。
 参謀本部の作戦部長田中新一少将は、1941年6月18日付の日誌で蘭印進出における全面禁輸に触れており、軍務局長の武藤章少将も7月23日の陸軍省局長会報で南進による経済圧迫の可能性を発言している。
 すでにアメリカは独伊の在米資産凍結を実行していて、日本が経済制裁を予想できても不思議ではない。それでも慎重意見が南進論に影響することはなく、禁輸を予想していた軍人たちも日中戦終結と資源自給を優先して進出を続行させた。
 全面禁輸前の7月24日、野村吉三郎駐米大使はルーズベルト大統領との会談で仏印の中立化を提案されている。外務省の回答は8月5日、石油全面禁輸が決行された4日後だ。
 外務省は中立化や撤兵については黙秘しつつ、仏印外への進駐停止を条件とした通商再開と日蘭交渉への協力を提案した。当然ながらアメリカは、これを黙殺。以後は民間業者の取引任せにするなど、外務省は禁輸解除にあまり積極的とはいえなかった。
 当時の陸海軍は、戦略的な石油保有量を部外秘にしていた。そのため陸海軍間はおろか、外務省ですら国家全体の備蓄量を把握してはいなかった。外務省が禁輸解決に消極的だったのも、軍の備蓄状況がわからないためだ。
 しかし、経済制裁にもっとも危機感を覚えたのは日本海軍である。海軍の戦史叢書によると、当時の備蓄状況は約2年分。交渉による打開が望み薄なら、取るべき道は決定的と記されている。戦闘指導班の機密戦争日誌7月27、28日付でも、若手の中堅将校を中心とした対米戦争論の沸騰が記録されている。
 艦隊行動の大半を石油に頼る海軍にとって、禁油はまさに死活問題。開戦のタイミング次第では、敵国への抵抗すら難しくなる。31日には永野修身軍令部総長が開戦に関する上奏に踏み切る。ただし、昭和天皇が勝算について尋ねたところ、勝算はわからないと答えて「海軍の作戦は捨て鉢的なり」と呆れられたという。この件は、後日に及川古志郎海相の弁明で永野の独断専行として処理されている。
 本当に永野が即時開戦を目指したのかはわからない。しかし、当時の海軍が「ジリ貧」への恐怖にさいなまれていたことは変わりなく、勝算がないのは自覚しつつも、着実に戦争へと追い込まれていったことは事実である。

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