推古女帝は中継ぎやお飾りではなかった


 推古天皇が即位したとき聖徳太子は19歳だった。若くはあるが、その後の実績が太子によるものだとすると、政治手腕に長けていたのはたしかだ。最強の実力者であり、姻戚関係にもある馬子がブレーンとしてサポートすれば、天皇の役目も完璧に果たしたかもしれない。
 馬子にしても、年若い太子が天皇であれば、30歳を超えていた崇峻天皇よりも扱いやすかったはずだ。「権威の象徴として若すぎる」というのであれば、前例のない女性天皇を立てるのも不思議な話だ。
 そこで、「太子は自ら天皇にならなかった」との説が浮上するわけだが、「ならなかった」というより「なれなかった」というのが正解だといえる。なぜなら、それほどまでに馬子の権力はほかを圧倒し、しかも推古天皇も大きな権限を有していたからにほかならない。
 推古天皇は崇峻天皇の異母姉であり、用明天皇の異母姉、敏達天皇の皇后かつ異母妹で、欽明天皇の皇女だ。系譜上、超越した存在である。当然、朝廷においても重要な位置を占め、馬子と同等かそれ以上の影響力を持っていたとも考えられる。
 さらに、立場だけでなく政治運営にもすぐれていて、仏教を興隆するための政策、宮中内の儀礼整備や神事の奨励、晩年近くに行われた新羅への遠征など、手腕を発揮。一説によると、冠位十二階や遣隋使も聖徳太子の発案ではなく、推古天皇か馬子によって行われたと考える専門家もいる。
 すなわち、女性であったとしても、推古天皇は決してお飾りではなく、実力を備えた君主であり、馬子に対して唯一、対抗できる存在だったのだ。そのため、推古天皇を推したのは馬子ではなく、馬子の勢力拡大を恐れた群臣たちが、こぞって即位をうながしたとも考えられる。
 さすがの馬子も確固たる立場にある推古天皇に対しては、反論を述べることもできなかったのだろう。
 問題なのは推古天皇が女性だという点だ。ただし、現在の感覚のような地位に、当時の女性が甘んじていたともいえない。
 7世紀の関東地方で女性が族長を務めたことを記す碑文が残り、『古事記』にも近江地方の有力豪族「三尾君」の始祖を「若比売」という女性をあてる記述がある。そのほかにも、『古事記』『日本書紀』『風土記』には、ヤマト王朝に服属した族長や反抗して敗れた族長の中に、31例もの女性の名を挙げている。
 天皇家の中でも、5世紀末ごろ清寧天皇の崩御後に一時政務を担ったとされる飯豊青皇女や仲哀天皇の皇后である神功皇后、また宣化天皇の崩御後に群臣が広庭皇子(後の欽明天皇)を推したとき、皇子は辞退して宣化天皇の皇后春日山田皇女の即位を望んだともいわれている。
 このとき、皇后も辞退したので欽明天皇は即位したが、もし引き受けていれば推古天皇の前に女性天皇が誕生していた可能性はある。ちなみに、神功皇后に関しては、明治時代以前までは15代天皇として即位したという史書が多くみられる。

蝦夷の強硬手段で決着がついた後継者問題


 とはいえ、推古天皇は聖徳太子より20歳年上で、即位の時は満年齢で39歳。聖徳太子が30代で皇位を継承する可能性は残されていた。しかし、622年に太子は没し、626年には蘇我馬子が亡くなる。推古天皇の崩御は628年だ。
 立て続けに時代の立役者がこの世から去ってしまう。それと同時に、いきなり皇位継承の問題が起きた。
 推古天皇には2人の皇子と5人の皇女がいたものの、長子の竹田皇子は夭折。もう一人の尾張皇子は聖徳太子の妃・橘大郎女の父という以外、目立った記録は残されていないため、皇位を継ぐほどの人物ではなかったと考えられる。したがって、推古天皇は後嗣が定まらぬまま他界したことになる。
 後継者として有力視されたのは聖徳太子の長子・山背大兄王と敏達天皇の孫で押坂彦人皇子の息子・田村皇子。皇位決定の実権を握った馬子の跡を継ぎ、大臣となったのは蘇我蝦夷だった。
 父親同様、蝦夷は朝廷における重鎮であり、当然、王位継承に関しても強い発言力を持つ。そんな蝦夷が擁立したのは田村皇子だ。
 田村皇子は廃仏派だった敏達天皇の直系だが、馬子の娘・法堤郎媛をめとり、二人の間には古人大兄皇子が誕生していた。つまり蝦夷は、古人大兄皇子を皇位に付けるために、田村皇子を担いだとも考えられる。
 だが、この後継者争いは、すんなりと決着するものではなかった。
 皇位継承者については、群臣の意見をまとめる必要がある。もちろん、蝦夷は田村皇子を推薦する。だが、大臣に就任して間もない蝦夷に、まだ馬子のような実力は備わっていない。
 群臣の中には、蝦夷を見くびっていたものもいただろう。蝦夷は自邸に群臣を招いて協議したが、意見は真っ二つに分かれる。そこで、叔父である境部摩理勢に意見を求めたところ、摩理勢は山背大兄王を推す。しかも、山背大兄王自身が皇位に執着を見せた。
 蝦夷はあくまでも、円満な解決を望んだのかもしれない。山背派である摩理勢の説得を試みる。しかし、摩理勢は反発して蘇我一族の墓所を荒らし、自宅に引きこもってしまった。そんな摩理勢の態度に業を煮やした蝦夷は、とうとう兵をあげて摩理勢を攻め、自害に追い込んだのだった。
 この強硬手段を用いたことにより、田村皇子の即位で問題は決着。34代舒明天皇の誕生である。
 

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