武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉖

ビラと新聞の戦地宣伝工作

航空兵器の実用化で投下が容易に

 戦場での対敵宣伝の主力となるのはビラだ。日本軍でも「伝単」と呼ばれ、敵への降伏勧告や士気低下を狙って積極的に用いられていた。自軍の主張を敵兵に絵でわかりやすく伝達できるため、第一次世界大戦や第二次世界大戦はもちろん、イラク戦争でも使われた伝統ある対敵プロパガンダなのである。
 ビラが大々的に使われだしたのは第一次世界大戦からだ。この戦争では航空兵器が実用化され、敵陣地への投下が容易になったことが大きい。そして、すでに開戦直後より英仏独による熾烈なビラ合戦が確認されている。
 大戦初のビラ散布は、1914年8月9日のフランス軍によるアルサス・ロレーヌ地域への投下である。この地域は普仏戦争(1870~71)で東半分を取られことから、反独感情が強い地域でもあった。これを利用し、対独蜂起を促すビラがまかれたのである。
 このほぼ2週間後にあたる8月30日にはドイツ軍機がパリ上空に侵入し、降伏を促すビラを投下していた。ただしこれらは現地部隊が突発的に行ったもので、内容も洗練されてはいなかった。最初に計画的なビラ散布を行ったのはイギリス軍である。

洗練された内容のイギリス軍のビラ

 開戦2ヶ月後の10月から翌年2月にかけて、イギリス軍は「ベガントマッフンク」というビラを西部戦線にばら撒いている。スウィントン陸軍中佐が制作を主導したビラの中身は、従来のものと違って極めて理性的なものだった。
 感情的だった仏独のビラとは違い、新聞形式を採用。内容も高圧的ではなく、冷静に語りかけるような文章を使用した。興奮した敵兵に強気なメッセージは逆効果なので、まずは落ち着けることが肝心だと判断したのである。
ベガントマッフンクの散布は2月に中止となるが、ビラ散布はその後も各戦線で続行された。そして「冷静な宣伝」という最も重要な部分は、第二次世界大戦にも受け継がれることになるのだった。
 第二次世界大戦時、イギリスの対敵プロパガンダは敵国宣伝部門「クルーハウス」が受け持った。彼らも冷静沈着を旨として、興奮を静めたところで質問を投げかける形式を好んだ。ただし、ビラの中に答えは決して書かない。敵兵自らに考えさせることにより、国や軍への疑心を植え付ける。それがイギリス対敵宣伝の基本スタンスだったと言える。

対敵用の宣伝新聞

 そんなプロパガンダに利用されたのはビラだけではない。
宣伝の新聞利用と聞けば報道検閲ばかりが取り沙汰されがちだ。しかし第一次大戦で新聞形式のビラも撒いていたように、イギリスは対敵用の宣伝新聞まで作成していた。太平洋戦線で日本軍向けに投下された「軍陣新聞」が一例だ。
 軍陣新聞は自然な日本語で書かれたタブロイド判で、戦況を多少脚色しつつも客観的に描き、日本がだんだん不利になっていく様子が一般兵にもわかりやすいようになっている。ここでも「降伏せよ」や「新聞が真実である」とは決して書かず、相手に考えさせるという基本を崩していない。
 そしてもっとも特徴的なのが、捕虜収容所に暮らす日本兵の写真まで掲載されていたことだ。その裏には戦死した日本兵の写真がくるという構造だ。そうして戦死者と投降者の姿を表裏で見せることにより、日本兵の動揺を煽ろうとしたのである。
 日本軍は敵への投降が禁止されていたのだが、情報に飢えた日本兵は貪るように読みふけったという。理性を尊ぶイギリスらしさは、日本相手にも効果的だったといえよう。

貴重な娯楽でもあった戦場新聞

 そうした戦場新聞はイギリスだけの技ではない。アメリカも通常のビラに混ぜて日本語の新聞を前線へとばら撒いている。ただ、「時事週報」のような手書きもあれば、「落下傘ニュース」のように活字式もあって、出来のほどはまちまちだ。だが、戦地の日本兵にとっては貴重な娯楽でもあった。
 正確な日本語を使い、食べ物や風景の写真が盛り込まれ、ときには漫画も載っているアメリカの新聞に、軍人たちは夢中だったという。ルソン島の陸軍軍医守屋正大尉の証言によると、だれかが拾ってくれば、ボロボロになるまで読みまわされたようだ。また、守屋本人も、アメリカの心理戦に対する研究と情熱に感心したと感想を述べている。
 戦争において情報も立派な武器であり、わかりやすくかつインパクトを持って伝えられる手段は敵兵を精神から消耗させていく。ビラや新聞は、少ない手間で効果が期待できる、効率的な手段だと言えるのだ。

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