太平洋戦争はこうしてはじまった㊷

本格的な対中戦の契機となった第二次上海事変


 盧溝橋事件前から上海は日中の緊張状態が高まっていた。中国は第一次上海事変の上海停戦協定を無視し、非武装地域への兵員配置を進めている。英仏米日参加の停戦協定共同委員会も中国の違反を問題視し、1937年6月の会議で苦言を呈していた。そうした状況下で起きたのが盧溝橋事件なのである。
 事件直後より上海では中国軍の演習を頻繁に行い、日本政府は7月28日に居留民引き上げを命令。現地残留の邦人は租界へ退避するなど緊張が高まっていた。8月9日、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される事件が起きる(大山事件)。日本は犯人の処罰と非武装地域からの軍の撤退を求めるが、中国側は拒否。停戦協定共同委員会からの批判と調停も受け入れず、日中衝突は時間の問題となりつつあった。
 8月12日、揚子江に駐留する日本海軍の第三艦隊が約2500の兵力とともに上海沖に派遣された。その目的は居留民保護だが、中国はこれを上陸作戦と勘違いし日本軍への先制攻撃を決定。翌日、日本軍の陸戦隊に機銃掃射を実行する。陸戦隊もこれに応戦し、両軍の戦闘はついに本格化した。「第二次上海事変」の幕開けである。
 同日、戦闘開始を受けて日本は陸軍部隊の上海派兵を審議。華北利権を重視する陸軍は、これ以上の戦線拡大に乗り気ではなかった。出兵に強行的だったのは、意外にも海軍である。被害が陸戦隊と艦隊であったことに加え、陸軍への対抗心と南方進出の野望から、華中・華南権益に強い関心を示していたからだ。結局、陸軍と政府は海軍に押し切られる形で派兵を了承。上海方面の兵力は増強されることになる。
 15日には前日の中国軍の空爆に対する報復で日本軍も渡洋爆撃を行い、日中の戦闘は華中方面でも本格化していった。この最中、政府は「盧溝橋事件ニ関スル政府声明」を発表し、南京政府(国民党)への断固たる処置を宣言。17日には不拡大方針の放棄が正式に決定され、9月2日に北支事変という呼称を「支那事変(日中戦争)」に改める。一方の中国国民党も総動員令を発し、中国共産党も「抗日救国十大綱領」の策定で共同戦線を張ったのだった。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?