廃仏派と崇仏派の内乱「丁未の乱」
 
 古墳時代から飛鳥時代ごろの政治機構は、大王と呼ばれた天皇を筆頭に、大臣・大連という官職が補佐をする形で成り立っていた。すなわち、この3者に群臣を加えたメンバーで朝廷は運営されていたのである。
 しかし、大連の職は用明天皇の死後、廃止されてしまう。原因となったのが、百済から伝えられた仏教を導入するか否かの「崇仏論争」だ。
 538年(522年説有り)に公伝されたとする仏教について、これを信仰するべきか、もしくは排斥すべきかで朝廷内は紛糾する。廃仏派は物部氏、中臣氏ら、崇仏派の中心は蘇我氏。物部は大連、蘇我は大臣の家系である。
 この両者の確執は時をへるごとにエスカレートし、とうとう用明天皇の崩御後に戦闘状態となる。いわゆる「丁未の乱」である。
 587年に起きたこの戦いのとき、大臣は蘇我馬子、大連は物部守屋。馬子は皇室との姻戚関係もあって聖徳太子をはじめ、多くの皇子を味方につける。いっぽう物部氏は軍事を司る氏族であり、その勢力も強大だ。
 一説によると、財務を担当していた蘇我氏は、権威はあっても勢力の弱い弱小氏族であり、そのために天皇家との姻戚を重ねたともいわれている。また、新興宗教である仏教を崇拝し、大陸からの新たな文化を率先して取り入れ、渡来人との関係を深めたのも弱小ゆえ、との意見もある。
 
物部氏の没落と蘇我氏の隆盛
 
 そんな蘇我氏と守屋率いる精鋭の戦闘集団が激突。当初は守屋側が有利だった。しかし、戦闘の最中、聖徳太子はヌルデの木を切って四天王の像を彫り、「この戦いに勝利すれば仏塔をつくる」と祈願。これが功を奏したのか、樹上から矢を射る守屋が逆に射殺され、総大将を失った物部軍は総崩れとなった。
 その結果、蘇我軍は勝利をおさめることになるが、太子は祈願の約束を果たして6年後に寺院を建立。それが現在の大阪市にある「四天王寺」だ。
丁未の乱の敗戦で物部氏は没落し、それと同時に大連も廃止となる。このことにより、馬子が絶大な権力を握ることとなり、皇位までも左右する実力者となった。
 ただ、丁未の乱が廃仏派VS崇仏派とすることに異論もある。たしかに蘇我氏は仏教を積極的に取り入れていたが、物部氏も仏教をうとんじていたわけではない、という説も唱えられている。
 大阪市八尾市には「渋川廃寺跡」という遺跡があり、渋川寺は物部氏の氏寺だったと考えられている。寺自体は守屋の没後に建てられたものではあるが、争いに負けたからといって仏教に寛容になるとも考え難い。丁未の乱はあくまでも権力争いであり、廃仏・崇仏は『日本書紀』が編纂される際に加えられたとも考えられている。
 どちらにせよ、天皇家の外戚として君臨する馬子は、蘇我の血統ではなく、しかも中臣勝海から支援を受けていた彦人皇子を皇位継承からはずす。竹田皇子に関しては、太子と同じ、もしくは年少であったとされ、さらには蘇我と物部の戦いで受けた傷が原因で没したとの説もある。
 このような経緯を経て、皇位は朝廷随一の実力者である馬子の一存によって決まるシステムが出来上がる。それどころか、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇にいたっては、馬子によって弑逆すらされているのだ。


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