武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑭

メディアを最大限に活用したラジオ戦略

国家が推進したラジオの普及

 ナチスの宣伝相ゲッペルスが、プロパガンダの主力としたメディアが3つある。新聞、映画、そしてラジオだ。なかでもラジオは広範囲の国民に迅速かつ直接的にメッセージを送れるため、情報の拡散力は他の媒体とは比較にならない。ナチスの国民操作において、ラジオの役割は最も大きかったといえる。
 宣伝大臣就任の直後、はやくもゲッペルスは全国のラジオ関係者を招集して精神的動員の達成を熱弁している。ただし、成功させるには解決すべき問題が多々あった。最たるものは、当時のドイツではまだラジオ環境が未整備だったことだ。
 宣伝省が国内放送局を掌握したとはいえ、局数も聴取者数も少ない状況にあった。1933年から34年の段階で、ラジオの設置台数は約100万台しかなかったのである。しかも当時のラジオは最新機器であったがために、高価で一般国民が気軽に買えるものではなかったのだ。
 そこでナチスは、急速なラジオの普及計画を発案した。ゲッペルスは就任直後からドイツの各放送会社を改組して、28のラジオメーカーに国民的受信機の設計を命じている。そうして提出された設計プランをもとに、ライトホイザー博士をリーダーとする委員会が開発することになったのだった。
 試作品は全国22ヶ所でテストが行われてから改良が施され、1933年8月18日のベルリン国際無線展示会にて発表される。その名称は「ドイツ国民受信機VE-301」。301とは、ヒトラーが政権を掌握した1月30日にちなんでいる。

大量生産体制で普及率70%を達成

 コストダウンを優先したので構造はシンプルで、国内向け放送しか受信できなかった。それでもナチスにとっては問題なし。そもそも、ラジオの普及はプロパガンダの円滑化が目的だったので、国内放送しか聞けないことはむしろ好都合だったし、外国放送の受信は法で禁止していたこともあり、何の欠点にもならなかったのだ。
 販売価格は76マルクと通常品の半額以下。それでも買えない国民には分割払いを許可した「VE-301」は大きな話題を呼ぶ。ラジオメーカーへの圧力で大量生産体制も整い、ラジオ普及台数は1938年に950万台を突破。430万人だった聴取者数も、670万人にまでふくれあがったのである。この数字を世帯数に換算すると、全家庭の約70%がラジオを保有したことになる。
 ただ、放送がつまらなければ国民はラジオへの興味をなくしてしまう。その点でもナチスは一工夫を施した。まず、家庭向けラジオを普及させる一方で、野外のラウンドスピーカーの設置も進めていた。全国の学校や工場、役所、広場などに置かれた大型スピーカーを通じ、重要な放送やヒトラーの演説をすべての国民が耳にできる仕組みをつくったのだ。
 さらにゲッペルスは、全国民が必ずラジオを聴く「国民ラジオの時間」を設定している。その時間になると、ほとんどの職場で作業の手が止まり、ラジオ放送に耳をかたむけなければならなかった。
 放送内容にも細工があった。まず、ラジオの時間で流れる放送は工場のサイレンと作業停止の音からはじまる。音の録音元はドイツ最大級のジーメンス工場。つまりは大工場ですら業務を中止することを演出して、全国民がラジオに集中する雰囲気をつくり出そうとしたのだ。

工夫が凝らされた番組内容

 それからヒトラーの演説や各種放送が流れるのだが、政治一辺倒でもなかった。一般大衆向けの番組も織り交ぜたところが、ゲッペルスの上手いところだ。もちろん、その一般向け番組にもプロパガンダは潜んでいた。たとえば、料理番組やラジオドラマが典型だ。
 ナチスは女性を男性に従属するものとしていた。この思想を根づかせるため、番組をつうじて家事は女性の基本だと信じ込ませようとした。また、ラジオドラマにもナチズム賛美を組み込こんで、リスナーは楽しみながらナチスの教えを覚え込んでしまったのである。しかも音楽番組のようなプロパガンダなしの放送も混ざっていたので、どの番組が宣伝目的なのかわかりにくくしたのも巧妙な点である。
 この他にも、ゲッペルスは放送監督所を全国に設け、放送監視をつづけるとともに、民衆向けのパンフレットも発行。重要な放送はあらかじめ知らせるようにして、国民にラジオ聴取の習慣を根づかせようと奮闘していた。
 そのかいあって、娯楽とニュースの手段だったラジオは、プロパガンダの手段に変えられた。第二次大戦時には敵国へのデマ放送や挑発行為に用いられるなど、ナチスの「宣伝兵器」として利用されていったのである。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?