太平洋戦争はこうしてはじまった⑰

関東大震災による海軍への影響
 
 1923年9月1日午前11時58分、東京を中心とする関東一帯を大地震が襲った。関東大震災である。
 相模湾の相模トラフを震源地とする地震の規模はM7.9。12時1分と3分にも、それぞれM7.2とM7.3の余震が首都圏を襲っている。平成の阪神淡路大震災(M7.3)と比較すれば、どれほど大規模だったのかがわかるだろう。ちなみに2011年の東日本大震災は、M9.0だとする。
 被害は東京府(現東京都)に留まらず、伊豆半島、房総半島、神奈川県から山梨県の一部にまで及んだ。なかでも東京などの都市圏は、震災に弱いレンガや石造りのビルが多数崩壊。大規模な火災によって約10万5000人の死者と行方不明者を出すことになる。
 被害総額は同時のGNP(国民総生産)の4割に当たる55億円以上になり、戦後恐慌はさらに深刻化。そしてこの震災は、海軍の建造計画にも多大な影響を及ぼすことになった。
 震災当時、横須賀海軍工廠では戦艦「天城」の改修工事が進んでいた。天城は八八艦隊計画で導入が決まった天城型巡洋戦艦の1番艦だが、ワシントン海軍軍縮条約の締結で建造は中止。ただ多くの計画艦が廃棄処分か標的艦となったなかで、天城は2番艦の「赤城」とともに空母への改装が決定した。天城型は高速航行が可能な巡洋戦艦なので、空母への改装に最適だったのだ。
 しかし改装中に発生した大震災で、天城は船台からの落下で大破してしまう。修復は困難と判断した海軍は、天城の廃棄を決定。代役となったのが加賀型戦艦1番艦の「加賀」だ。加賀も八八艦隊計画艦の1隻だったが、震災当時は廃艦処分が決定していた。しかし、神戸川崎造船所に置かれていた艦艇を横須賀に回航させると、急遽空母に造り返られる。そうして1928年に竣工したのが空母としての加賀なのだ。
 なお、赤城は呉の海軍工廠にあったので無事。1934年に大改装を受けた加賀は、赤城とともに第一航空艦隊の中核として活躍することになる。もしも関東大震災がなければ、空母部隊の主力は、赤城と天城になっていたかもしれない。
 ちなみに、廃棄後の天城は資材の一部を浮き桟橋に流用され、2023年の時点でも「ジャパンマリンユナイテッド」の磯子工場に現存している。また、太平洋戦争後期には天城という名の空母が投入されているが、名前が同じなだけで戦艦天城とは関係がない。

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