太平洋戦争はこうして始まった⑮

第一次世界大戦終了後の反動不況


 第一次世界大戦の大戦景気は、戦後も1年ほど続いていた。大戦被害が収まりきらない欧州からの輸入需要が今後も続くと楽観視されたこと、そして戦後恐慌を見越した日本政府の金融緩和政策のためだ。アメリカの金輸出解禁による日本国内の本位貨幣急増も、景気を後押しした。アジア方面への輸出は継続され、金融緩和で株式や土地への投資がより活発となり、物価と地価の高騰も加速。投機も過熱する一方だった。紡績、銀行、電力など主要産業への投資額も1年間で2倍以上も膨れ上がり、当時の日銀総裁井上準之助は国内の狂乱を「空景気」と揶揄したほどである。
 ただし、対英輸出は1917年、対仏輸出はその翌年をピークに減少をする。そして大戦中の損失を解消するため、欧州諸国は早期に輸出事業を解禁。その結果として起きたのが、日本企業の過剰在庫と株価の大暴落だ。
 1920年の春より、東京・大阪市場にて株価の大暴落が始まった。鐘紡、商船、東株、郵船などの主要株価は、3月1日から4月中旬の間に3分の1から半額にまで下落。株成金は大打撃を受ける。好調だった輸出産業も、市場に復帰した欧州企業にシェアを奪われていく。製品価格は下落を続け、輸出の激減もあって製造・重化学工業は大打撃を受けた。
 過剰な設備投資で倒産した企業も相次ぎ、銀行も取り付け騒ぎが頻発して七十四銀行(現横浜銀行)を始めとする多数の銀行が破綻。この年だけでも21の銀行が休業に追い込まれ、その後3年の間に32の普通銀行が支払停止となっている。
 基幹銀行を失った各企業も連鎖的に倒産していき、国内産業は多大な被害を受けた。それだけではなく、企業は不利益を隠すための粉飾決算を行ったため、事態はさらに深刻となる。だが、政府は物価上昇を世界的な現象と軽んじ、公定歩合引き上げなどの引き締め策も不十分な結果で終わらせてしまった。
 こうした「大正のバブル崩壊」で最も被害を受けたのは、やはり戦争成金だ。早期の事業縮小で逃げ切った成金もいたが、大半は姿を消した。船成金の代表格である山本唯三郎も財産の大半を失っている。山本は、教科書でも紹介された百円札に火をつける絵のモデルだといわれ、一時は年商で三井物産と三菱をしのいだ鈴木商店も経営破綻寸前となる。このような戦後不況に追い打ちをかけたのが、1923年の関東大震災だった。

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