太平洋戦争はこうしてはじまった⑯

ワシントン会議と海軍軍縮条約

 関東大震災が起きる前、国際的に重要な会議が開かれた。アメリカの主導による初の国際会議、ワシントン会議だ。アメリカの首都で開かれた会議の内容は、東アジアの戦後秩序に関する協議である。日本では海軍軍縮条約の締結が有名だ。
 第一次大戦後、日本とアメリカは互いを仮想敵とし、艦艇の建造を競い合っていた。ただし、日本では新型戦艦8隻、巡洋艦8隻からなる「八八艦隊計画」も進んでいたが、過度な軍拡による財政の圧迫と、軍縮を求める世論が無視できない規模に膨れ上がる。一方のアメリカも事情は、ほぼ同じであり、こうした建艦競争を食い止めることが会議の目的のひとつだった。また、不安定が続く日中対立の問題解決と、日本の進出が目立つ太平洋の安定化も目的である。
 参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ベルギー、中国の9ヵ国だ。1921年11月12日からの会議において、総会議長のチャールズ・ヒューズ米国務長官は初日に軍縮案を提示。主力艦建造の10年休止と米英日仏伊の主力艦保有制限を軸とする軍縮案について、イギリスとフランス、イタリアはおおむね受け入れた。
 しかし日米の保有率については議論が紛糾。日本は最低限度を対米7割と考え、アメリカは対日戦を有利とする対米6割を曲げなかったのである。さらに、長門型戦艦の「陸奥」について、米英は未完成として廃棄を求める一方、日本は完成艦として要求を拒否する場面もあった。
 最終的な保有率は米英が5、日本は対米6割に当たる3となり、仏伊は1.67だ。陸奥は保有が認められはしたものの、代償として米英も新造艦の一部建造が認められたため、戦力差はより開くことになる。ただし、その埋め合わせとして、日本は太平洋上の新規要塞・海軍基地の建設禁止を記した条文を軍縮条約内に追加させている。
 こうして日英米は、それぞれの海軍に厳しい制限を課し、ワシントン海軍軍縮条約は締結される。そして、日英同盟の破棄と太平洋上の現状維持を約する4ヶ国条約と、中国領の保全と門戸解放を記した9ヶ国条約の締結をもって、会議は翌年2月に閉会した。会議後の日本は、補助艦の整備と拡充に力を入れていくが、のちのロンドン軍縮会議でこれも制限されることになる。太平洋戦争中の戦力配備は、こうした軍縮条約によって形成されていったのである。

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