太平洋戦争はこうしてはじまった㉑

治安維持法の制定


 大正時代の日本は、国民意識の興隆や主要地域の都市化、教育充実で驚異的な発展を遂げていた。その流れに取り残されていたのが農村部だ。開発が遅れただけでなく、都市部に若者が流出したことで人手不足が慢性化。流出先の都市部ですら、劣悪な労働環境と貧富の格差が問題となっていた。まさに大正日本の発展は、いびつな構造だったと言える。
 そうした背景のもとで、活発化したのが社会主義運動だ。生活や経済の完全平等を目指す運動は日清戦争直後から始まっていたが、1910年の一斉検挙で壊滅状態となった(大逆事件)。しかし第一次世界大戦の労働問題の深刻化と戦後不況により、社会主義運動は再び息を吹き返す。明治地時代末期の1912年に結成された労働者団体「友愛会」は、1917年までに正会員数が15人から約2万5000人にまで急拡大したほどだ。そうした運動をさらに勇気づけたのがロシア革命の成功だった。
 1917年の3月と10月の革命でロシアの帝政が打倒されると、日本の社会主義者は全国で集会を開催。同年8月の米騒動と寺内内閣の退陣にも便乗し、友愛会の創始者、鈴木文治らは労働組合の合法化と普通選挙の実施を政府や市井の人々に訴えた。こうした社会主義の高まりに危機感を覚えたのが日本政府である。国内で社会主義革命が起きようものなら、天皇制の崩壊にも繋がりかねないからだ。
 そのため、1922年2月に高橋是清内閣は「過激社会運動取締法案」を議会に提出。無政府主義や社会主義運動の結社や宣伝活動を取り締まる法案だが、取締対象の法的定義が曖昧なので、このときは廃案となる。だが、立法を目指す政友会と消極的だった憲政会が連立し、1925年1月の「日ソ基本条約」締結時にソ連が日本国内での宣伝禁止を拒否したことより、法案は修正を加えて再度議会に提出された。こうして同年3月7日に可決され、4月22日に公布されたのが「治安維持法」である。
 この法律の内容は、私有財産否認の結社を取り締まるもので、まさに社会・共産主義思想を狙い撃ちしたものだ。最高刑は「10年以下の懲役または禁錮」だが、3年後に死刑に改正。組織の未加入者でも協力行動をすれば同等の処罰を受けた。そして太平洋戦争時には新興宗教、自由主義者、極右勢力にまで取締の範囲は広げられ、施行から終戦後の廃止までに約7万人以上が検挙。過酷な拷問やリンチで多数の者が獄死・病死することになるのだった。

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