日本古代天皇史③
武烈天皇で断絶した皇統
継体天皇は近江国(現滋賀県)で生まれたが早くに父を亡くしたため、母の故郷である越前国(現福井県)で育つ。その後、王として越前もしくは近江を統治していたが、大伴金村、物部麁鹿火、巨勢男人といったヤマト王権の重鎮に招かれ、即位を決心。『日本書紀』によれば、このとき継体天皇はすでに58歳である。
しかし、継体天皇はなかなか大和へ入らず、即位したのは河内国(現大阪府)の樟葉宮。4年後に山城国(現京都府)の筒城宮に都を遷し、7年後に再び山城国の弟国宮に移る。そして、即位して19年後にようやく大和国(現奈良県)の磐余玉穂宮に入り、その翌年には退位・崩御している。
この経緯を見ても、継体天皇の立場が特異であることは否めない。
いくら先代に後継者がいないとあっても、200年近くも前に亡くなったとされる先祖の子孫を担ぎ上げるのは疑問だし、継体天皇の父と応神天皇をつなぐ系譜は「記紀」になく、本当に天皇家の血族かも疑問視されていた。さらに、中心地である大和盆地へ入るのに20年近くも要している。
これらの点から、武烈天皇で天皇家は一度断絶し、継体天皇が新王朝を立てたとする説が存在する。すなわち、越前・近江の豪族であった継体天皇がヤマト王権を倒し、新たな支配者となったとする考え方だ。そして、即位から大和に入る期間が長かったのも、旧王朝と戦闘状態にあったためだとする。
このような、皇統に断絶があったとする学説を「王朝交替説」といい、継体天皇以外にも幾度か行われたとする研究家はいる。代表的なものが早稲田大学教授だった水野祐氏による「三王朝交替説」だ。
さまざまな王朝が乱立した「王朝交替説」
水野氏は神武天皇から推古天皇までの33代のうち、『古事記』に没した年が記載されている天皇は15代であることに着目。そのほかの18代は実在しなかったと指摘する。そして、第10代の崇神天皇を最初の実在天皇とみなし、第15代応神天皇のときに新王朝が立てられ、継体天皇がさらに新しい王朝を立てたとする。
さらに東洋史学者の岡田英弘氏は、神武天皇から応神天皇までを架空とし、16代仁徳天皇から22代清寧天皇までを「河内王朝」、清寧天皇に子がなく播磨国(現兵庫県)から迎えられたという23代の顕宗天皇から武烈天皇までを「播磨王朝」、そして継体天皇以降を「越前王朝」とする。さらに推古天皇と34代舒明天皇の間にも断絶があった可能性があると指摘している。
これらのほかにも、4世紀末ごろにヤマト王朝が内部分裂して、あらたに河内王朝が立てられたとする説、神武天皇から開化天皇までの「欠史八代」は「葛城王朝」として実在し、それを崇神天皇が倒したとする説などが唱えられている。
やはり正当な後継者だった継体天皇
ただ、継体天皇によって新王朝が立てられたという説にも、当然疑問は呈されている。疑問の1つが連続性だ。
通常、旧王朝が打倒されると、その統治機構や儀礼は一新される。旧体制をそのまま踏襲すれば、なんのための革命かわからない。
ところが継体以後のヤマト王権には、統治機能から前方後円墳を使った埋葬方法にまで、大きな変化は見られない。打倒した王朝をそのまま引き継ぐのは、さすがに常識はずれだ。
武力での制圧についても否定的な意見が根強く、研究者の山尾幸久氏は、ヤマト王権の勢力拡大のため中枢の有力豪族が招いたとし、塚口義信氏は継体の出自も近江国から越前国に移った王族の末裔と考えた。大和入りに19年もかかったのも、継体の即位反対派の妨害によるものと論じている。
これらの説は、なんらかの政治抗争があったとしているが、加藤謙吉氏は物部・大伴氏の支持で平和裏に即位したもので、大きな騒動は起きなかったと結論づけた。
内容に多少の差異はあるのだが、武力による皇位簒奪はなかった点では一致しているのだ。
さらに継体天皇の血筋についても発見があった。『上宮記』という「記紀」より古い史料に、応神天皇から継体天皇までの詳細な系譜が見つかったのだ。
ただ、『上宮記』の原本はすでに失われおり、『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』などに引用文が残るのみだ。だが継体天皇の系譜が判明した意味合いは大きく、継体期に外部勢力の制圧はなかった根拠の1つにはなるだろう。
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