太平洋戦争はこうしてはじまった㊶

船津工作の失敗


 日本政府の声明で命名されたように、盧溝橋事件直後の日中戦は「北支事変」と呼ばれていた。戦線は北支(華北)のみに限定されており、日本内では満中国境近辺の武力紛争という認識だった。そのため、早期停戦に向けた動きもいくつか起きている。
 有名なものとしては石原莞爾が、日中首脳会談による和平を風見章書記官長の仲介で近衛文麿首相に提案している。近衛首相は興味を示したらしいが、広田弘毅らの反対で実現はしなかった。
 一方の外務省は、7月29日より和平案の作成に取り掛かっている。この日、昭和天皇は近衛首相に外交交渉による解決を提案し、陸海軍の了承のもとで外務省が協議を進めはじめた。8月4日の四相会談にて決定した和平案の要点は次の通りだ。 
 内容は停戦交渉案と国交調整案に分けられている。停戦交渉案では、停戦後に非武装地域を拡大し、日本軍は駐屯部隊を削減するとともに、北支派遣軍・関東軍が結んだ各協定を解消して、華北における国民党政府の任意行政を認めるとした。ただし、行政主導者は日中融和派の有力者とされた。国交調整案では日中間の経済協力を促進させつつ、両国で防共協定を結び、上海停戦協定の解消を明記。その一方で、中国には排日活動の取り締まりの徹底と、満州国の承認か不問を求めたのである。
 外務省はこの和平案を、元外交官の船津辰一郎在華日本紡績同業会理事長に委ねた。政府が動くと陸軍内の拡大派に妨害されるが、私人なら邪魔をされにくい。キーマンとなった元外交官の名を取って、この和平工作は「船津工作」と呼ばれている。
 8月7日に上海入りした船津は電報で送られた和平案を受け取り、あとは国民政府外交部 アジア局長の高宗武と接触して和平工作を始めることになっていた。しかし、この工作は失敗に終わる。華北から戻った川越茂駐華大使は、「自分が中国に伝える」と船津和平案を取り上げたのだ。9日午前に船津は高宗武と会談はしたものの、和平案を渡すことはできなかった。
 川越と高宗武の会談はその日の午後に予定されていたのだが、石射猪太郎東亜局長の証言によると、和平案は十分に伝えられなかったようだ。なぜ川越が中途半端に終わらせたのかは不明である。さらに13日に上海で起きた大規模武力衝突(第二次上海事変)で中国の態度は硬化。和平工作は事実上失敗する。そして戦闘は大陸中に飛び火し、事実上の全面戦争となっていくのである。

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