武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉓

米英仏にもあった反戦主義者の徹底弾圧

第一次世界大戦における弾圧

 プロパガンダの成功に邪魔となるのは、冷静な人間と反抗的な人間だ。熱狂に流されなければ宣伝の真意を見破られかねず、それを周囲に広めるかもしれない。企業のイメージ宣伝ならまだしも、戦時宣伝の失敗は国民の団結や戦意を揺るがし、敗北の遠因にすらなりかねない。
 そのため枢軸国は、反体制的な人間を弾圧していた。日本では「敗北主義者」「非国民」といったレッテルを貼りつけて、コミュニティから排除している。しかし、米英などの連合国側も同じだった。
 第一次世界大戦を例にとると、フランス人のマヨー牧師は、大戦中に2年の禁固刑を受けている。ドイツ軍の残虐性を強調するプロパガンダを否定し、フランス軍も同様の悪行をしていると非難したからだ。また「戦争に関する史料・批評研究学会」というドイツの戦争責任に懐疑的な意見を出したがために、警察の監視下に置かれ、1917年に内務省命令で活動を禁じられた。
 イギリスでもプロパガンダを疑問視したものは厳しく処罰され、反戦団体「UDC」のモレル代表は警察に家宅捜査されたばかりか、のちに強制労働の刑を受けた。アメリカも例外ではなく、親独発言をする者の逮捕や処刑を促す意見があったのだ。
「直接的または間接的にでも親独的な発言をする者は、逮捕、銃殺、絞首刑、もしくは無期懲役に処すべし」
 この過激な意見を述べたのは、セオドア・ルーズベルト米大統領である。1918年4月6日付の「ル・マタン紙」に掲載されたこの意見通り、アメリカ参戦やプロパガンダを否定したものは社会的に追い詰められ、あるいは本当に逮捕されていた。自由主義国家でも、反戦論者は強く排除されていたのだ。

徴兵拒否者6000人を収監したアメリカ

 こうした反戦弾圧の動きは、第二次世界大戦でも見られている。苛烈だった国のひとつはアメリカだ。
 フランクリン・ルーズベルト大統領は欧州参戦に否定的な共和党との折り合いが悪く、「不干渉主義はアメリカに対する最大の攻撃」と揶揄したことがある。さらに1940年のアーリントン墓地における演説では、「あなた方は、そして私自身も、大戦に身を捧げました」と戦没者を慰霊しつつ、「ここ数年、同じ国民でありながら、我国の捧げた犠牲が無駄であったと思わせるような非国民が存在する以上、われわれは彼らに立ち向かわなければなりません」と反戦論者を非難している。
 共和党の反戦運動は「リメンバー・パール・ハーバー」のプロパガンダで打ち消されはしたものの、反戦意見を固持する国民は残っていた。しかし国内に反日・反独の機運が吹き荒れる状況下では、彼らへの風当たりは相当に厳しいものがあったのだ。
 なかでも弾圧されたのは徴兵拒否者だ。1941年12月20日、選抜訓練・兵役法の改正で18歳から65歳までの男性市民は、全員徴兵制への登録が義務付けられた。これによってアメリカの全成人男性は潜在的なアメリカ軍兵士となったのだが、宗教上の理由や平和主義などで徴兵を拒否する国民もいた。そうした国民は申請書を作成すれば、「良心的兵役拒否者」として権利が保障される決まりとなっていたのだ。
 終戦までに1万2000人余りが徴兵を拒否したというが、拒否者は民間公共奉仕への出頭が義務付けられていた。つまりは戦争で戦わないぶんを社会貢献で補えということだ。
 ただし、良心的兵役拒否者も徴兵登録は済ませる必要があった。一度登録をすると、戦場行きを強いられる可能性があるために、登録そのものを拒否する者もいた。
 では徴兵登録そのものを拒絶し、公共奉仕も拒んだ者はどうなるか。待っているのは刑務所への収監である。 
 1940年10月12日、ユニオン神学校のグループが徴兵反対の声明書を報道機関や政府関係者など約1500人に送ったところ、中心メンバーの8人が約1年の実刑判決を受けた。新聞メディアも裁判結果に注目してはいたが、真珠湾攻撃前だったので記事内容は被告に好意的であったようだ。
 だが、サウスカロライナ州のキャンプ相談員のジョン・H・グリフィス氏への対応は厳しかった。宗教と民主主義の自由を重んじて徴兵登録を拒絶すると、1942年7月9日にFBIが彼を逮捕し、裁判後にリッチランド郡刑務所に収監されることになる。
 収監前に検事事務所へと連行された際には、地方検事から「兵役逃れは非国民」と罵られかけ、牧師の父親が慌てて反論してくれたという。だがその父親も、徴兵登録をさせる様愛国的な教会役員から圧力をかけられ、より小さな教会に異動させられている。
 徴兵拒否で収監された囚人は約6000人。当時のアメリカ政府は徴兵に非協力的な国民に、かなり冷ややかだった証拠といえよう。

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