日本古代天皇史⑫

藤原氏の始祖不比等の台頭

 母帝である持統上皇が亡くなってわずか5年後、文武天皇は24歳の若さで崩御する。第一皇子である首皇子はわずか7歳。そのため、文武天皇の母である元明天皇が、やはり中継ぎとして即位する。
 ただ、それまでの女性天皇は、全て皇后の経験があるのに対し、元明天皇の夫・草壁王子は皇位を得ていない。つまり、権威は弱く、実務に関しても疎かったとされる。そこで登用されたのが、藤原不比等だ。

 不比等は「乙未の乱」の中心人物の一人である鎌足の子で、天智天皇から「藤原」の姓を賜っている。不比等は法律や文筆に優れていて、そのため「大宝律令」の編纂に尽力し、その運営にも期待が寄せられた。さらに持統上皇亡き後、後見をなくした文武天皇を支援。娘の宮子を、即位直後の文武天皇の後宮に入れもしている。

 715年、54歳の元明天皇は老いを理由に退位を表明。皇太子である首皇子は、まだ15歳だ。しかし、文武天皇が同じ年齢で即位したこともあり、若すぎるとはいえない。ただ、首皇子は病弱であったとされ、さらに母親は不比等の娘・宮子である。

 文武天皇は、後宮筆頭の皇后や第二位の妃を持たなかったとされる。当時、皇后や妃は皇族に限られていたので、宮子はそのいずれにもなれない。つまり、首皇子は血統として弱い立場にあったのだ。加えて、臣下の身分でありながら重用される不比等に対し、反感を持つ皇族系勢力もあった。

 これらを抑ええつつ、天武天皇・草壁皇子・文武天皇という系統を守り、首皇子が皇太子としての信用を確立するまでとして即位したのが、元正天皇である。

 元正天皇は草壁皇子と元明天皇の娘で、文武天皇の姉に当たる。ただし、婚姻経験はなく、もちろん皇后になったこともない。したがって、あくまでも首皇子が天皇になるまでの、「中継ぎの中継ぎ」でしかなかった。そんな状況の中で、ますます権威を高めてきたのが不比等だ。

 不比等は708年、右大臣に就任。そのころ太政大臣は置かれておらず、上位である左大臣・石上麻呂は70歳を目前にした老人だったので、事実上、不比等は元明・元正天皇の時代に政治の実権を握る。さらに宮子のみならず、首皇子の後宮にも娘を入れている。名前は安宿媛、通称は光明子、後の光明皇后である。

 

聖武天皇と光明皇后


 このような形で不比等は、天皇家の外戚としての地位も得る。しかし720年、不比等は病死。そのあとに右大臣となったのは、長屋王。長屋王は聖武天皇の即位と同時に左大臣となる。

 724年、首皇子は24歳となり、元正天皇より皇位を継承する。45代聖武天皇である。

 聖武天皇の即位により、草壁嫡系の皇位継承は完成する。だが、身体は弱いままで、しかも皇族でない母を持つという立場だ。一方、政治の実権を握った長屋王は、父が天武天皇の長男・高市皇子で母は天智天皇の娘で元明天皇の同母妹である御名部皇女。血筋の上では、天皇を上回るといっても過言ではない。

 そんな長屋王と聖武天皇の確執を物語るエピソードがある。

 即位の二日後、聖武天皇は母である宮子に「大夫人」の称号を与えたいとした。これに対し、長屋王は、「律令によれば宮子は皇太夫人となるはずだ」と難色を示す。これに対し、天皇は前言を撤回し、文章に記すときは「皇太夫人」、言葉にするときは「大御祖」とするように、と改めた。

 さらに727年、聖武天皇と光明子の間に皇子が誕生する。すると、聖武天皇はわずか生後2ヶ月で、皇子を皇太子とする。

 皇太子はもちろん、次の天皇になるべき存在である。しかし、天皇の地位が形骸化された時代ならともかく、この頃は君主として重要な地位にあったし実務も行う。すなわち、天皇となるべき資質も不明な幼児を立太子させることなど、前代未聞である。

 この立太子には、不比等のあとを受け継いだ武智麻呂、房前、宇合、麻呂、いわゆる「藤原四兄弟」の思惑があったとされる。すなわち、藤原系の皇子を立てることにより、自分たちの立場を確固たるものにしようとしたのだ。

 だが、この皇子は誕生の翌年に病死する。さらに聖武天皇には県犬養広刀自という後宮夫人の間に安積皇子を設けている。だが、聖武天皇は安積皇子の皇位継承を認めない。そして、さらに前代未聞の意思を示す。それは光明子を皇后にすることだった。

 

長屋王の変と藤原広嗣の乱


 先に記したように、本来、皇后は皇族の身分のものに限られる。なぜなら、推古天皇や皇極天皇、持統天皇のように、皇后は天皇になる可能性を持っていたからだ。これに大きく反意を示したのが、長屋王である。

 この時点で、有力な皇位継承者は、安積皇子と長屋王だった。聖武天皇は、まだ30に満たない年齢なので皇位継承は先の話ではあるが、万が一ということもあるし、なんと言っても病弱だ。そこに、藤原氏の影響が強い光明子が立后すれば、長屋王が天皇になる芽は完全に摘まれてしまう。

 729年、天皇に対し、ある密告がなされた。それは、長屋王が国家の転覆を図っているというものだ。これに対し、藤原宇合の率いる軍勢が、長屋王の邸宅を包囲。長屋王は翌日に尋問を受け、翌日に首をくくって自殺させられている。

 これが「長屋王」の変であり、政敵が失われた藤原四家と聖武天皇は事件の数ヵ月後、光明子を皇后とする。藤原氏の権力は、より磐石になりつつあった。

 しかし、737年、藤原四兄弟は猛威を振るった天然痘により、相次いで病死。政治の実権を握ったのは、光明皇后の異母兄・橘諸兄(臣籍降下前は葛城王)だ。

 だが、橘諸兄が右大臣に昇任した日、聖武天皇は再び異例の処置を取る。なんと、光明皇后との間に残された唯一の子供、阿倍内親王を皇太子に立てたのだ。

 女性の立太子は、これまで例がない。その理由は、聖武天皇があくまでも藤原系の皇位にこだわったためである。この方針に対し、群臣は大反発。そして、事件は起きる。

 740年、大宰少弐(大宰府の第二次官)藤原広嗣が挙兵。橘諸兄に対するクーデターを企てる。原因は四兄弟亡き後の藤原氏に対する処遇の不満。また藤原氏内でも孤立していたので、自己を顕示するためといわれている。だが2ヵ月後に平定され、広嗣は斬殺。藤原氏の立場は、ますます凋落していくのだった。

 この「藤原広嗣の乱」の4年後、安積皇子が急死。聖武天皇は40歳を超えていたので、もはや皇子の誕生は望めない。だが、橘諸兄を中心とする群臣は、阿倍内親王を皇太子とは認めていない。にもかかわらず、748年に元正太上天皇が亡くなると、翌年に聖武天皇は、男性天皇として初めて譲位を強行。意志通り阿倍内親王が即位し、46代孝謙天皇が誕生する。

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