武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉕

「人民の礼拝堂」と呼ばれたソ連の映画

プロパガンダ媒体としての映画

 ソ連建国の父、ウラジミール・レーニンは、映画を「すべての芸術の中で、もっとも重要」と称賛した。ただし、映画の芸術性を認めたからではなく、プロパガンダの道具として最適だという意味だ。
 映画とプロパガンダの相性はロシア革命前より注目されており、レーニンの側近トロツキーも「ヴォトカ(ウオツカ)、教会、映画」と、1923年7月12日付の「プラウダ」154号にて影響力の強さを主張していた。当時のロシアは識字率が低く、文字が読めなくとも映像でメッセージを伝えられる映画は、まさに最良のプロパガンダ道具と認識されたのだ。
 すでにソ連建国前の1919年9月には、モスクワで世界初の国立映画学校が設立されている。また革命成功後の1922年1月17日、レーニンの「映画事業における指令」によって映画事業は人民教育委員会が体系化。国家映画委員会ゴスキノ(のちにソユーズキノ)が設立され、ソ連の映画製作は本格始動することになったのだ。

現在も評価の高い「戦艦ポチョムキン」

 委員会と映画事業者は、共産党をたたえる映画の制作を命じられた。党のイデオロギー賛美はもちろん、レーニン神格化のためにも利用されていく。映画の中ではレーニンを偉大なる指導者として描く一方、万民平等の共産主義に沿うべく工夫も忘れてはいない。たとえば、群衆役の役者に「普通の人だ」「我々と変わらない」と言わせるといったように、だ。こうすることで、レーニンは民衆に付きそう「同志」としてのイメージを定着させようとしたのだ。
 もちろん、娯楽としての映画にも手を出している。代表作は「戦艦ポチョムキン」。ポチョムキンの反乱をテーマとし、エイゼンシュテイン監督が制作したプロレタリア映画だ。
 ポチョムキンの反乱とは、1905年6月14日に装甲艦ポチョムキンで発生した水兵達の反乱を指す。事件の発端は、昼食に出されたスープの肉が腐っていたこと。これに異を唱えた水兵に士官達が体罰を加えようとしたところ、仲間が銃を奪い抵抗。艦長と多数の士官を射殺し、艦を乗っ取ったのである。
 反乱は軍の反撃で失敗し、25日にルーマニアで艦を放棄することになる。しかしソ連では革命前夜の反乱として評価が高く、事件の20周年にあたる1925年に制作された記念映画が「戦艦ポチョムキン」だ。
 プロパガンダ映画であることは否定できないにせよ、モンタージュなどの革新的技術をふんだんに用いた作風は、純粋な映画としても高く評価されている。なかでも住民が兵士達に虐殺される「オデッサの階段シーン」は、いまも映画史に残る名シーンとの指摘もある。その完成度は、ナチスドイツの宣伝大臣ゲッペルスが大絶賛し、プロパガンダの参考にしたほどだ。

映画館が各地をめぐる専用列車

 このような映画プロパガンダを円滑にするべく、レーニンはユニークな手段も取っていた。「移動映画館」だ。正確にいえば、共産党のイデオロギーを広めるための専用列車である。
 車体は人々の目を惹きやすい派手なカラーリングが施され、車両は様々な施設に改造されていた。党の書物が満載した図書室、ポスターなどを製作可能な印刷室、停車地域での活動内容を話し合う会議室。その中でも目玉とされた施設が映画ルームだった。映画館のない地域に住む人々は、普段は見られない映画に我先と集まり、楽しみながらソ連の宣伝を受け止めていったのである。
 1930年代に入ると映画のバリエーションも増え、ニュース映画の「キノプラウダ」、ミュージカル喜劇の「ヴォルガヴォルガ」、旧帝国の崩壊を描く「ロマノフ朝崩壊」といった多種多様な映画が人々に楽しみとイデオロギーを刷り込んでいった。
「ソヴィエト・ハリウッド」の建設構想も立ち上がったのだが、1938年の大粛清によるボリス・シュミアツキー映画大臣の処刑で頓挫。だが、映画プロパガンダの手法はヨシフ・スターリン政権にも受け継がれている。
指導者の神格化はより強化され、独ソ戦が開戦するとスターリン崇拝を誘う映画はより多くなる。同時にヒトラーを揶揄する映画も増加した。
 1942年に上映された「キノサーカス」は、3本仕立ての短編でありながらも、そのすべてがヒトラーを嘲笑するコメディアニメ。当時はソ連軍が不利だったころなので、笑いとアニメを通じてヒトラーのイメージダウンを狙い、国民の士気を高める意図があったのだ。
 このようにして人々の心を扇動していった映画館は、宗教を否定したソ連にとって事実上の[人民の礼拝堂」だったとされているのだ。

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