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相模線について

昨日、娘に「なんで茅ヶ崎って言うの?」の質問に対して調べnoteで記載しましたが、実はその後息子からも「相模線ってなんなの?」というざっくりとした質問をされました。
自分の知識を絞り出した結果
「茅ヶ崎、橋本間を繋ぐ単線で、ボタン式で開閉するのが電車の特徴だよ」と言う説明はできました。3歳児に説明するには十分ですが、もう少し掘り下げてみよっかなと言う事で少し調べてみました。
相模線は大正10年に茅ヶ崎、寒川間、寒川から川寒川間を繋ぐために開業されました。
開業目的として当時の設立趣意書には、年間47万の参詣客が来訪する大山阿夫利神社の旅客、穀類、繭糸、木材などの輸送、相模川で採取される「砂利」の輸送の為という記載があるようです。
中でも、明治から大正にかけては鉄道や道路などのインフラ整備が盛んに行われ、木造から鉄筋コンクリートによる建築物が増えていたことから砂利の需要が高く、比較的近隣である多摩川では玉川電鉄(渋谷―玉川間、1907年開業)、東京砂利鉄道(国分寺―下河原間、1910年開業)などが盛んに砂利輸送を行っていた。
そんな中「砂利鉄」と呼ばれ、相模川から採取砂利を輸送する為に作られたのが「相模鉄道」のはじまりとなります。
設立当時は予想していた営業収支よりは下回っており、比較的苦しい営業だったようです。
そんな中第一次世界大戦による世界的な好況や関東大震災を契機に東京からの工場移転等の計画が持ち上がりその場所として、東京、横浜、川崎の臨海部に新しい工業地帯をつくることとなった。それが機械工業や鉄鋼、石油・石油化学・電力等のエネルギーといった分野で日本の高度成長を担った中心的な工業地帯である「京浜工業地帯」である。東京、横浜、川崎の臨海部を埋め立てて作られた工業地帯で、その際に大量な砂利が必要とされ、相模鉄道の砂利輸送の需要が高まった。また上記に触れた関東大震災後の復興にも大きな貢献をしているようです。
震災復興が落ち着くとまた低迷期に入るが、その打開策として砂利の採取・販売の直営に乗り出したとされているようですが中々全盛期までは回復に至らず、昭和に入り市ヶ谷から陸軍士官学校をはじめとする軍施設や工場の移設をきっかけに需要が再度高まることとなった。
今の旅客列車として再開されたのは昭和60年ごろとなるようです。砂利線として活躍していた頃よりは規模縮小はしつつも、今でも茅ヶ崎の顔として活躍してくれている相模線。
乗るとなんとなくホッとするので新宿を行き来する際にあえて厚木まで相模線を利用することもありました。
最近、30年ぶりの新型車両「E131系」が、11月18日から運転を始めるということで話題にもなってまして、昨日も撮り鉄の姿をちらほら見ました。
みんなに愛されている相模線。これからも末長く活躍してくれることを期待してます。

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