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「箸の日」に読みたい民俗学者・高取正男「生活の知恵」|ボクのお茶わん・ワタシのお箸

8月4日は #箸の日 です。

1968年から69年にかけて朝日新聞に連載された「生活の知恵」には、その名も「箸」と題された第2回含め、日本人の箸への感覚と、その意識がもつ文脈をわかりやすく説かれています。書いたのは民俗学者・高取正男。

たとえば連載第1回目はこう説きはじめられます。「『ボクのお茶わん』『ワタシのお箸』などといって、茶わんと箸だけは、それぞれ個人用のものをきめている家庭は多い」。でも西洋料理や中華料理はそうではない、と。

…箸には、とくに個人用の食器という意識が強い。弁当に使う杉の割箸は、なにごとも倹約を重んじた時代から、使うたびに捨てるのを原則としてきたし、使ったあと、二つに折って捨てる習慣を、いまも守っている人もある。

高取正男「生活の知恵」

なぜ、そんなことをしたのか?高取はこう説明します。

これは、自分が使った箸を他人が使わないようにするためで、他人に使われると、魂まで奪われるように思ったのが、もとの意味であった。(中略)個人のものということは、かつては宗教的な感覚によってささえられていたのである。

高取正男「生活の知恵」

高取正男の「ボクのお茶わん・ワタシのお箸」ネタは、その後、京都女子大学の教育学科初等教育学専攻の講義「教育専門・社会」(1971~)でも活用された後に、講談社現代新書『日本的思考の原型:民俗学の視角』(1975)としてとりまとめられます。

同書では「箸」ネタは割愛されて、湯呑、茶碗について詳述しています。さらには個室へも話題は発展します。

ヨーロッパやアメリカでは個室と鍵を重視するが、個人用の食器という点では意外と無頓着である。反対に日本人は個室をもたないかわり、個人用の食器につよい執着をしめしてきた。両者のあいだに存在する差異はなにをもってプライバシーの象徴とみなすかという文化的な問題だけで、近代以前の伝統的な社会での個人意識に、本質的なちがいとか程度の差はなかったとみるべきである。

高取正男『日本的思考の原型』

高取は、ここで欧米の「個室」が「個人の独立」をもたらしたという説に疑義を呈します。「近代の個人主義」をモデルに奮闘してきた知識人がこぞって信奉したのもやむをえない、としつつも、とはいえ「精神の問題に入るまえに、自然と風土の条件とふかく関連しあっている建築の材料とか、構造の問題として考えられねばならない」だろうと。

さらにいえば、「自然と風土の条件」「建築の材料とか、構造の問題」が「精神の問題」へ深く影響を及ぼしていると、空間決定論的に主張することも可能だろうけれども、まずは「文化の型」の問題として捉えるべきと言います。欧米と日本、一方にはプライバシーがあり、もう一方がないという見立ては「神話」だろうと言うのです。

この手の複数の側面や事象を一面的な理由づけで描き切るのは、わかりやすく、また魅惑的なストーリーになりがちです。でも、だからこそ異なる視点、異なる価値観をみつめつづけないといけません。「ほんまかいな?」の精神。民俗学はそのトレーニングに最適ではないでしょうか。

あれれ・・・。

箸の日の話だったはずなのに、ずいぶんとちがう話になってしまいました。

そういえばコロナ禍に放り込まれた際、娘の小学校から「給食時の箸を各家庭から持参」するよう指示がありました。「家族がそろって食器を共用し、おなじものを食べること」がはじまったのは近代化過程でのことといいます。そして、児童がそろって「食器を共用」し同じ給食を食べる小学校もまた、その近代化過程の主要舞台でした。

そんな「学校」の存立基盤ともいえる「食器の共用」を忌避せざるをえない疫病の蔓延は、箸の共用が「魂まで奪われる」ことを意味することを読み替えているようにみえます。まじない=呪術的なレベルとしての「魂まで奪われる」ではなく、西洋医学的な病いとして「魂まで奪われる」ものへと。いや、実は別ではなくって、そもそも昔から呪術と病は不可分だったわけで。

そんなこんなで、小学校からの娘が持ち帰ってきた依頼文書は、「学校給食制度」というザ・近代な仕組みのなかに、疫病を契機に「ワタシのお箸」がブワッと湧きでたような感覚をもたらしました。

(おしまい)

※連載記事「生活の知恵」は、後に『高取正男著作集4生活学のすすめ』(法蔵館、1982)に収録されています。引用は同書より。


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