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防災の日に|建築家・石井桂の「大正十二年関東大震災遭難談」を読む

1923年、東京帝大建築学科を卒業した石井桂(1898-1983年)は警視庁建築課に入庁。その年の9月1日、関東大震災に見舞われることになります。被災によって家族を失い、自らも本所被服廠跡で九死に一生を得る体験をした石井は、その後、建築の法体系づくり等に尽力します。さらには、建築行政官ではままならない状況を打破すべく政界進出。参議院・衆議院議員として建築行政、都市計画をたくさん手掛け、後進の育成のため教育にも情熱を傾けました(*1)。自由民主党本部の建築設計を担当したことでも知られます。

石井の著書『建築家の歩いた道』(室町書房、1954年、図1)には「大正十二年関東大震災遭難談」という文章も収録されています。

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図1 『建築家の歩いた道』

弟妹が待つ自宅へ急いで帰る途中、火の手にはばまれて石井が逃げ込んだのが本所の陸軍被服廠跡。そこでの実体験を、防火思想普及のため後世に残そうとして記したのがこの文章なのでした(*2)。

逃げ込んだ被服廠跡は、その名の通り元々は陸軍の施設が建っていた場所。施設移転に伴い今は空き地になっていたことから、絶好の避難場所にみなされたのでした。そこに4万4千人あまりが逃げ込んでいたといいます。突如おそってきた熱風で吹き飛ばされた石井。落ちた先は偶然にも「深さ一尺あまりの水溜まり」でした。そこに大勢の人が折り重なって人の山に。石井はその「山」の中間層にはさまれ身動きできなくなります。次第に火の手が迫り意識を失う。目覚めるとそこは地獄絵図になっていました。

上の人は焼死し、下の人は僅か一尺の水溜まりで溺れ死んでいる。自分だけがその場所で助かったと思うと涙が流れて仕方なかった。(p.54)

死体の山からようやく助け出されると、石井は出合わせた隣家の人に、自分の家族の安否を尋ねます。すると石井家も被服廠跡に避難したはずだと聞かされます。「腰が抜けてもう歩く気はしなかった」と。結局、母弟妹3人が行方不明のまま。後に「誰かの御骨を三人分戴いて厚く葬った」のだといいます。石井はこう書きます。

自分はここで大切な紙面を敢て私事を書いて皆様に読んで貰う目的は、つまり当時は、防火思想の普及もなく、地震と火災に驚いて逃げた結果が、この惨害を蒙ったことを充分知って頂くと同時にこれが災害防止には木造建築の防火改修が徹底的に実施される必要を充分認識して頂きたいためである。(pp.55-56)

1930年、石井は『市街地建築物関係法令通解』(建築工業社)を出版。次いで1944年に『防空建築と退避施設』(建築綜合資料社)を手がけました。大震災という天災の悲惨な体験を胸に災害防止に邁進してきた石井は、その20年後には戦争という人災に打ち勝つ知識を普及する立場になったのでした。平和な戦後になっても、床屋で熱い蒸しタオルを顔に圧しつけられるたびに、熱風がしみ込んで呼吸困難になったあの被服廠跡での体験を思い出したといいます。

関東大震災時、被服廠跡は公園に整備するための工事中で、災後にそこは横網町公園となりました(1930年9月1日開園)。

3万8千人が犠牲となったその場所には伊東忠太が設計した慰霊堂が建ちます。関東大震災がおきた9月1日は、1960年に「防災の日」と定められました。「政府、地方公共団体等関係諸機関をはじめ、広く国民が台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、これに対処する心構えを準備する」ことの大切さを改めてかみしめたいと思います。

とはいえ人は忘れやすい。1953年、石井は自ら会長をつとめる日本建築学会の機関誌『建築雑誌』1953年8月号に「都市不燃化について」と題した文章を寄せています。

出だしはこうです。

我国の古い「いろはかるた」に「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」と云う文句がある。して見ると忘れ易いことは日本人の特徴かも知れない。大正12年の関東大震災には都内だけでも約十数万の生霊を失っているし、亦約十数万棟の家屋を焼失している。大震災の直後は耐火構造に対する国庫の補助金も、建築費の3分の1が与えられたが、それでいて今次の戦争終了迄に出来たビルの数は僅に約2,400棟に過ぎなかった。東京をうづめつくした百数十万棟の木造家屋は再び戦火にあって消失し、更に約十数万人を犠牲にした。

「忘れ易いことは日本人の特徴」。文章はこう続きます。

戦後漸く都民は耐火構造の建築の必要を認め、都市不燃化が識者によって叫ばれながら今日迄に建てられたビルは約300棟に過ぎない。而も相変わらず東京は約数百万棟以上の木造建築でうづまってしまった。然るに一部の有力な為政者からは、ビルブームとか何とか非難されて、耐火構造を一時的にとは云え、法的措置を講じて防止したことは残念至極と云わざるを得ない。

石井のくやしさがにじみでる文章です。戦後、都市や住宅の不燃化が願われた背景に、太平洋戦争だけでなく関東大震災からつづくたくさんの「体験」があることもまた再確認したい。外壁をモルタルで塗り固めたり、鉄骨造・RC造の建築が建てられたのは、たくさんの「床屋に行くたびに思い出す」体験があるということを。

(おわり)


1)石井は東京府立三中時代に浅沼稲次郎や岸田日出刀と同級だったそう。また、田中角栄が中央工学校で学んでいた頃、石井桂は同校講師を兼業していたため、田中にとって石井は「恩師」にあたるとか。ただ、田中の心情は微妙であったことを、戸谷英世が証言しています(「政治家『石井桂』が語った『能吏』と官僚」、HICPMメールマガジン第762号、2018.6.5)。

2)ほぼ同様の内容を含む講演録が、日本建築学会(当時、建築学会)の機関誌『建築雑誌』(1937年12月号)に収録されている。題目は「建築学会通常講演会講演・都市の火災」。


石井桂『建築家の歩いた道』目次
自序
やけどとゆでぐり
素朴な恋の思い出
母の羽織
私の住んで来た家々
吾が陋屋の記
私の名前
大正十二年関東大震災遭難談
懐しき人々
忘れ得ぬ人々
シルクハット
犬にもわかる英語
チョコレートは男から女へ贈らない
葭のずいから国会を覗く
汲取り口と学士様
都内住宅の建設状況
首都の住宅対策
土木と建築
戸山ハイツ建設の思い出
建設業法について
欧州建築行脚

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