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伊勢湾台風から64年|竹内芳太郎「海の中の干拓地」と小菅百寿『農村のブロック建築』を読む

9月26日で伊勢湾台風から丸64年を迎えました。真珠筏を心配した祖父がこの台風で亡くなったことを、いまは亡き祖母から度々聞かされて育ったこともあって「いせわん台風」は特別な響きでもって記憶に残っています。

竹内芳太郎と鍋田干拓

農村建築研究の大家・竹内芳太郎(同じ竹内姓ですが全く無関係)の米寿記念に編まれた『野のすまい』(ドメス出版、1986)には長短さまざまな文章が集められていて、そのうちの一つに「海の中の干拓地」という小文があります。

海を埋め立てた土地であるはずの「干拓地」が「海の中」にある理由が、伊勢湾台風でした。1959年12月8日、台風被害から2か月あまりを経過したこの日、竹内芳太郎は案内役のY課長(農林省のお役人?)とともに鍋田川を船で下って愛知県鍋田干拓地の被災状況を視察したのです。ただ、干拓地だった場所は「海」でした。

並んで建っていたはずの入植者住宅は基礎、水回りの腰壁と土台しか残っていない。1956年からはじまった入植事業は165戸の入植がおわり、住宅は107戸竣工、残り58戸は建築中だったといいます。台風襲来の日は、入植後最初の収穫を間際に控えていました。318名の在住者のうち133名が死亡。台風の数日前に入植した若者たち、新婚の花嫁、妊婦の命も奪われました。

国庫補助を受けた入植者住宅とあって、浴室・台所まわりはコンクリートの腰壁でできていました。高潮はそんな上物を根こそぎ流し去ります。残された腰壁は「住宅の墓」かのよう。「せめてあれが夜でなくて昼ででもあったら死者も少なかったろう」と竹内が問うとY課長は首をふり「あの地獄絵図を目に見たら、命の助かる前に、恐らくみんな気が狂ってしまったでしょう」と答えたといいます。

竹内の文章は過度な感傷を抑えて、淡々と被災地の状況とY課長の説明を記しています。むしろ、その淡々とした筆致が涙を誘わざるをえません。台風後、鍋田干拓地には内堤防が築かれ、そこに鉄筋コンクリート造3階建ての「伊勢湾台風復興住宅」が建築学者・勝田千利の指導のもと建設されます。1階に農作業場、2階に居住空間、小さな3階部分は災害時の避難を想定したもの。

鍋田干拓の復興住宅、アサヒグラフ(1962.3.2)

愛知県映画「伊勢湾台風 復興の歩み 第2部」の7.28あたり、同じく愛知県映画「立ちあがる鍋田干拓」の2.00あたりから勝田による伊勢湾台風復興住宅の建設風景、竣工後の生活の様子がうかがえます。

竹内自身も復興事業に関与し、岐阜、三重、新潟などに建設された通称「農村アパート」の設計指導にかかわりました。

農民アパート、アサヒグラフ(1962.11.30)

養老町に建てられた「農村アパート」はいまもまだ現存し、かつご入居されているようです。鉄筋コンクリート造で1階ピロティ部分が共同農具庫や共同作業所、集会所、2~3階は居室。自然災害に負けない新しい農村コミュニティの、とってもモダーンなプランニングになっています。

養老町農村アパート『小住宅と住まい方百科』主婦の友社、1964

災害復興をテコにして、農村住宅・集落の近代化が目指されたわけですが、その近代化の波はそもそもの「農業」自体を揺るがし、流しさることになります。とはいえ、復興住宅・アパートに込められた思いは、自然災害からひとびとの命をどう守るかを心血注いで模索した人びとや、復興へ向けてふたたび立ち上がり生き抜いた人びとの存在を今に伝えてくれています。

小菅百寿と城南干拓

勝田千里や竹内芳太郎と同じく、復興住宅を手がけた人物に小菅百寿がいます。小菅の著書『自分で建てられる農村のブロック建築』(1957年)は、副題が「附・球形シャーレン構造の造り方」というなんともてんこ盛りな内容ですが、これがいろいろと興味深い内容です。

小菅百寿『農村のブロック建築』1957年

目次はこんなかんじです。

まえがき
第一編 農村建築一般
第二編 コンクリートの概要
第三編 ブロック造の概要
第四編 補強コンクリートブロック造の予備知識
第五編 補強コンクリートブロック建築構造設計規準の解説
第六編 補強コンクリートブロック造の実例
附録1 球形シャーレン構造の造り方
附録2 補強コンクリートブロック造設計規準案
附録3 平屋建特殊コンクリート造特定設計規準

この本は「愛農叢書」の一冊として刊行されたもの。発行元は全国愛農会本部。住所は三重県名賀郡青山町別府、現在の伊賀市別府。あれ、なんか聞いたことあるなと調べてみると、農業指導者・小谷純一が敗戦後すぐに立ち上げた団体で、愛農学園農業高等学校の母体。ああそうか、野沢正光建築工房が木造校舎や旧校舎再生などを手掛けたところでした。

そんな全国愛農会本部による「愛農叢書」は、もっぱら農業に関連したラインナップながらも、この『自分で建てられる農村のブロック建築』だけ異質な内容です。その理由はというと、著者である小菅百寿が、コンクリートブロック造で全国愛農会根本道場宿舎(1956年)を手掛けた縁からの執筆だからのようです。

副題にもなっている「球状シャーレン構造」は小菅百寿が、戦時中に関東軍建築研究科で研究した成果なのだそう。

小菅百寿『農村のブロック建築』1957年

敗戦後、農林省から開拓者ブロック住宅の研究指導を依頼され、本書はそこでの成果がまとめられたもの。小菅は東京高等工業学校建築学科、谷口忠研究室出身。同窓には先述した勝田千利がいました。

余談ながら、愛農会創立者・小谷純一は京都帝大農学部在学中に、無教会主義キリスト教に入信。大学卒業後は加藤完治が主導した満蒙開拓青少年義勇軍運動に参加。その後、農林省「農民道場」創設に関与したといいます。満蒙開拓少年義勇軍に関与したことを敗戦後に悔いて教職を辞し、はじめたのが1946年スタートの愛農塾、後の全国愛農会なのだそう。当たり前ながらも、この時代を生きた人々は戦時があったからこそ戦後がある。小谷しかり小菅しかり。

さて、この本には「三重県城南開拓のブロック造住宅群」も掲載されています。城南開拓とは桑名市立田町と大平町に位置する干拓地のこと。全国愛農会の前身である愛農塾と同じ1946年に干拓事業がはじまり、小菅による指導のもと開拓者自身の手で協同して造りあげたのが「ブロック造住宅群」なのだそう。敗戦直後の絶望的な食糧難を克服するために、農業が主要課題になったのでした。

小菅百寿『農村のブロック建築』1957年

このブロック造住宅建設が竣工したのは1955年。そして、この本の出版は1957年です。そして1959年9月26日、伊勢湾台風が城南開拓にも襲来します。敗戦直後からコツコツとつづけられた干拓事業がようやく完成したのが皮肉にも台風襲来の前年。高潮被害にあい干拓地は海水に漬かり、55人の犠牲者を出したといいます。

被災した立田町と大平町に35棟の伊勢湾台風復興住宅(コンクリートブロック造2階建て)が建設され、その設計を農林省から依頼を受けた小菅百寿が担当します。まさか開拓者たちと協同してブロック造住宅を造ったあの喜びから、わずか4年で新たなブロック造住宅の図面を引くことになるとは思ってもみなかったことでしょう。鍋田干拓、川口干拓などは谷口研同窓の勝田千利が復興住宅を担当することに。

ちなみに、小菅百寿による指導のもと開拓部落で協同建築したブロック建築(伊勢湾台風復興住宅ではなく開拓当初の住宅)は、伊勢湾台風での被害を乗り越えて数棟いまも現存し、この土地の歴史を今に伝えています。

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思えば小さい頃、台風に備えて雨戸をしめきった家のなかで次第に退屈してきて、ちょっと外の様子をチラ見してみようかとすると、祖母は「台風のときはぜったいに戸をあけたらいかん」と強くいいました。

小さな娘3人を残してあの世に旅立ってしまった夫。家業である真珠養殖の筏が心配で見に行ったことが、結果的に命を落とすきっかけになったといいます。家じゅうの雨戸をしめきって台風が無事通過することを願うたびに、祖母はきっとあの日の出来事を思い出していたにちがいありません。

(おわり)

※伊勢湾台風復興住宅については、こちらの研究報告書が参考となります。


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