見出し画像

ミサワホーム LIMITED 25の「衝撃」

坪25万がもたらした衝撃

デフレ不況真っ只中の2001年7月、業界の常識を覆す超低価格量産工業化住宅「LIMITED 25」(図1)が発売されました。発売元は大手ハウスメーカー・ミサワホーム。「LIMITED 25」がもたらしたいくつかの「衝撃」について書いてみたいと思います。

画像1

図1 LIMITED 25 (2001)

超低価格といわれる「LIMITED 25」。相場のおおよそ半値で大手ハウスメーカーの家が建つということで一般・業界双方へ「衝撃」を与えたシロモノ。それと同時に、大いに売れたにもかかわらず結果的にミサワホームが産業再生機構の餌食になる(2004年末、支援決定)道筋をつくったという点においても「衝撃」でした。

そんな「LIMITED 25」とはどんな住宅だったのでしょうか。

間取りは8プランで仕様を固定、プラン限定、仕様限定、期間限定の完全企画型にすることで、営業・設計・積算に要する経費を大幅に削減し、住宅メーカーがつくる住まいは「良いけど高い」という常識を打ち破りました。
(『ミサワホーム技術開発史』、ミサワホーム総合研究所、2007)

また、営業方法も非常識なものでした。

「LIMITED 25」の販売説明会は、6月30日より7月中旬まで、計52回開催します。お客様の来場を待つという従来の手法ではなく、全国で説明会を行い、短期間に一括して多くの申し込みを受け付けるという新しい販売方法をとりました。この手法によって、今回のコストダウンの大きな要因である営業経費の削減を推進します。
(ミサワホーム、ニュースリリース、2001年6月29日)

ローコストといえども「安かろう悪かろう」でなく、前年からスタートしていた品確法の主要項目は最高等級を確保。そんなお得感満載な提案は予想以上の好評を博し、2001年7月限定販売にもかかわらず3728棟を販売。住宅業界の新記録を樹立しました。

「LIMITED 25」の「衝撃」は建築業界にも波及し、たとえば『建築ジャーナル』の2002年3月号は「坪25万円住宅到来:日本の『住』はどう変わる」を特集。そこでは「住」が完全に市場原理に取り込まれていくことへの危機感が表明されています。

さて、そんな記録的販売数を誇った「LIMITED 25」も思わぬ副作用をミサワホームにもたらします。超低価格という「衝撃」が強すぎ、同社の他商品の売り上げが落ちてしまったのです。それどころか、中高級商品の顧客層も「そんなに良いものが安いのなら、わたしもLIMITED 25にしよう」と乗り換え組が出てくる事態に。

バブル期に手を広げたすぎたゴルフ場&リゾート開発の不良債権化に苦しむミサワホームにとって、「LIMITED 25」は従来とは異なる顧客層の取り込みを目論んだ起死回生策だったものの、その読みが裏目に。

その後は、2003年に株式移転によるミサワ・ホールディングス(二代目ミサワホーム)としてUFJグループ化。銀行が経営に口を挟む体制となり、さらにその翌年には産業再生機構の支援対象へ。ついには創業者・三澤千代治の追放劇へと発展します。

このあたりの経緯については、三澤自身の告発的発言のほか、UFJ銀行やトヨタ自動車、竹中平蔵等々が入り乱れる陰謀論と共に語られるネタがありますが、とりあえずここでは触れないでおきます。

スマートがもたらす住宅像の衝撃

期間限定販売だった「LIMITED 25」は一旦は役目を終えますが、後継商品として「SMART STYLE 25」、さらには「GENIUS SMART STYLE attic type」へと継承されていきました。

そこで名を冠している「SMART STYLE」。それは、三澤千代治が新たに提唱した「スマートに生きる=自分の暮らしを手に入れる」というコンセプト(詳細は三澤千代治『SMART STYLE 住まいの賢い選択』、創樹社、2002を参照)。「家は欲しいけれど無理はしたくない」「新築後の新しい生活を大切にしたい」という若年世代の思いを尊重した、とても先見の明ある提案だったと今あらためて思います。

三澤は「SMART STYLE」の在り方を、一住宅だけでなく都市景観も含めた問題として捉え、それこそ商品パンフレットでは欧米にみられるシンプルな形態の住まいや美しい歴史的街並みと規格住宅「SMART STYLE 25」群が建ち並ぶ風景を関連づけながら語っています(図2)。

画像2

図2 「SMART STYLE 25」パンフレット

さて、この「SMART STYLE」は、2018年現在も継承されている商品群名称で、「BEST BASIC」といったメッセージとともに用いられて現在に至ります。むしろ東日本大震災を経て、ようやく時代が追いついてきた感すらするくらい。

また、新たな展開としても、「LIMITED 25」の種子は花咲きます。メーカー住宅に顕著なコストの代表とされる営業経費の削減に成功した「プラン・仕様の限定」や「説明会の実施」といった手法は、後のインターネット住宅販売「MISAWA WEB DIRECT」の登場(2008年~)へもつながっているのです(図3)。

画像3

図3 インターネット住宅販売「MISAWA WEB DIRECT」

インターネットを介した住宅の販売が可能になるためには、「プラン・仕様の限定」や「説明会の実施」といった脱・対面販売の下地が必要でした。永らく「住宅は対面販売が絶対だ」と思われてきたなか、「LIMITED 25」の(販売面での)成功は、インターネット住宅販売への懸念を大いに軽減したものと予想されます。

このインターネット住宅販売の仕組みは、さらに洗練(?)されて東日本大震災や熊本地震などで展開された震災復興支援住宅へも継承されていきます(図4)。

画像4

図4 震災復興支援住宅「MISAWA HEART 2011」

災後のマイホーム再建は予算も工期もシビアな上に、性能への期待も大きいことから、いわば「LIMITED 25」的な住まいの利点が大いに発揮される舞台となったのでした。

ミサワホームがひたむきに続ける「国民住宅」の夢

ミサワホーム史のハイライトの一つである「O型」(1976)も、オイルショック後の不況に苦しむ日本にあって、工業化住宅のメリットを最大化させるために開発されたものでした(図5)。

間取り・仕様を絞り込み「規格」化を進める一方で、商品としての付加価値を盛り込んだ「企画」型住宅をはじめて世に問うたのは、やはりミサワホームでした。その後、ハウスメーカー他社は企画型住宅をこぞって市場投入していきました。

画像5

図5 企画住宅の嚆矢「ミサワホームO型」(1976)

さらに遡ること1969年、ミサワホームは100万円住宅「ホームコア」を販売。これまた「衝撃」をもって受け取られました。平均的国民年収(月収5万円)で入手できる価格=100万円の実現へ向けた大型パネルによるプレハブ住宅。これは、プレハブ住宅だからこそ実現可能な夢でした。

そして2001年には「LIMITED 25」、そして「SMART STYLE」コンセプトの提唱、さらには2008年の「MISAWA WEB DIRECT」サービス開始と続きます。これらの点を線でつないでいくと、多くの大手ハウスメーカーが創業時に抱いたはずの「低価格・高品質を工業化技術で実現する夢」が浮かび上がってきます。

工業化住宅の夢は時代が移り変わるなかで次第に忘却されてきたように思えます。ただ1社、ミサワホームだけが「低価格・高品質な住宅を多くの国民に提供する」というプレハブ住宅本来のロマンを不器用なまでに実行してきたんだなぁ、とシミジミします。

日本の格調高い住文化を市場原理によって破壊するハウスメーカーというベタな構図は、いまでも目にしたり耳にしたりすることがある「史観」の一つ。でも、戦時から戦後にかけての日本における家づくり迷走の歴史を丹念に辿っていくと、そんなに雑な話ではないことがわかってきます。

そもそも格調高い住文化は、一部の富裕層の「邸宅」で育まれてきたものであって、その他大勢の庶民の住まいは劣悪な状況にありました。「住宅双六」に乗って「庭付き郊外一戸建て住宅」を手にする、そのアガリの「住宅」の一翼を「超低価格量産工業化住宅」が占めるはずだったのではないでしょうか。

でも、戦後日本の住宅購入者たちは「安普請で画一的なプレハブ住宅」の価値をなかなか認めてはくれなかったことから、ハウスメーカー各社は高級感と多様性を演出することに気をとられ、迷走を極めて今に至ります。

いわば、戦時に端を発する「国民住宅」の夢は、未完のまま現在に至るわけです。「LIMITED 25」はそんな忘れられた夢をうっすらと思い出させる「衝撃」も持ち合わせた住宅なのです。

(おわり)

サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。