劇団フライングステージの『新・こころ』について

 来月(2024年3月)、劇団フライングステージが、夏目漱石の『こころ』をふまえた『こころ、心、ココロ』という作品を上演すると聞いた。「日本のゲイシーンをめぐる100年と少しの物語」という副題がついていて、第一部「名も無き時代」と第二部「名付けること、名付けられること」から成る二部構成の劇である。東京ではE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』を下敷きにした前後編6時間半の『インヘリタンス』が上演されたばかりだが、フライングステージのこの新作も、上演時間がどれくらいになるかはさておき、構想のスケールの大きさでは少しも見劣りしない。
 実を言うと、フライングステージはすでに2008年3月に『新・こころ』という作品を上演しており、自分は当時季刊誌だった『シアターアーツ』の第35号の演劇時評に取り上げている。この『新・こころ』が、来月上演される二部作とどのような関係になっているかはわからない。作・演出の関根信一は、15年以上前の旧作に大幅に手を加えて二部作に仕立てようとしているのかもしれないし、あるいはまったく新しく構想を立て直したのかもしれない。ただ、関根が過去に漱石の名作をどう舞台化したかを観劇前に頭に入れておくことは無益でもないだろう。下にその演劇時評の一部を抜粋して掲載しておく(掲載にあたって、漢数字を算用数字に変えるなど、わずかに加筆・修正を施した)。

 フライングステージは1992年に設立されたカンパニーで、以来、15年以上にもわたってゲイの劇団であることを公表して活動を続けている(公演によっては外部から客演を招くこともあるので、出演者がすべて男性同性愛者というわけではない)。作・演出を担当する主宰の関根信一は、英国のテレンス・ラティガンやノエル・カワード(彼らもまた男性同性愛者だった)を彷彿とさせるような端正な作風を持ち味とするウェルメイド劇の名手だ。今回、彼が試みたのは、夏目漱石の『こころ』をゲイの視点から読み直すことである。
 と言っても、べつだん奇を衒って小説中の同性愛を想起させる細部に着目し、そこを軸にして原作を換骨奪胎しようというわけではない。関根の関心はあくまでもこの小説の核心、なぜ先生は自ら命を絶つことを選んだのかという問いへと向けられている。となれば当然、小説の第三部を構成している、先生が「私」に宛てた遺書が重要な手がかりとなってこようが、この部分を読み直すにあたって関根はまず先生の語り手としての信頼性に疑いの目を向ける。先生は必ずしも「私」に真実を包み隠さず述べてはいないのではないか。自分にとって都合のいいことしか先生は遺書に書いていないのではないか。このように先生を信頼できない語り手と想定して、関根はその遺書に描かれた世界へと分け入ってゆく。上演台本中の台詞を借りれば、先生の遺書という長大なモノローグの「行間を読み」つつ、若き日の先生とKの間に何があったのかを探ろうとするのである。
 このスリリングな解釈行為を舞台上で自分に代わって遂行する人物を導入するために、関根は原作の外側にもうひとつ大きな枠組みをしつらえる。現代の日本の大学で『こころ』をテーマに卒業論文を執筆しようとしているゲイの大学生を視点人物として登場させるのである。この学生は自分のゼミの男性教員に恋心を抱いており(この現代の学生と教員のペアは、明治の「私」と先生を演じているのと同じ俳優たちによって演じられる)、小説中の先生と「私」、および先生とKの間の同性愛的な欲望を論じようとしている。そして、ちょうど明治の「私」が謎めいた先生の過去を知ろうとしてその遺書をむさぼるように読むように、この学生も『こころ』を精読して、作中の先生の心理へ立ち入っていこうとするのである。かくして、フライングステージの『新・こころ』は、若き日の先生とKの時代、先生と「私」の時代、それにこの学生のいる現代という三つの時代を行き来しながら展開してゆく。
 ただ、漱石の『こころ』における男性同性愛的要素に着目すること自体は、もはやとくに独創的な視点とは感じられない。飯田祐子の『彼らの物語』(名古屋大学出版会、1998年)などをはじめとして、この小説が濃厚なホモエロティシズムに満ちたテクストであることはすでに多くの論者によって指摘されている。むしろ、研究者が問題にしているのは、『こころ』の先生とKの間に見られる同性愛的感情は同性間のセクシュアルな欲望(ホモセクシュアリティ)ではなく、女性によって媒介されることを前提とした「男同士の絆」、ホモソーシャルな関係を結ぼうとする欲望ではないかということだろう。このホモソーシャルな欲望はホモセクシュアリティとは似て非なるものである。ホモソーシャルな男同士の絆は、媒介役でしかない女性への強い侮蔑や嫌悪を含みつつも、女性パートナーの獲得を前提とした異性愛体制を構築する。女性を媒介としない欲望を抱く男性同性愛者は、むしろこの体制からは排除されるべき存在なのだ。こうした区別を立てた場合、先生の遺書の中で描かれている「お嬢さん」をめぐる先生とKの関係は、どうやらホモセクシュアルというよりホモソーシャルと呼ぶ方が適切なように思えてくる。
 この点については関根信一もじゅうぶんに意識していて、彼は『こころ』に含まれたミソジニーをぬかりなく明るみに出している。その顕著な例が、劇中の女性登場人物をすべて男性俳優に演じさせていることだろう(先生の下宿のおかみさんは関根自身が演じている)。このちょっとしたキャスティングの工夫で関根は、漱石の描く女が所詮は男の考える女、男にとって都合のよい振舞いをする女でしかないことを鮮やかに提示するのである。さらに彼は、原作にはないお嬢さんの友人、お嬢さんと同じ学校に通う女学生を登場させて、「お嬢さんは先生にとってただの道具でしかない」とはっきり口にさせている。このように、『こころ』におけるホモエロティシズムは、強いミソジニーに裏打ちされ、否定的な側面を色濃く持つものではあるのだが、関根はその点を認めたうえで、なおそこにたんにホモソーシャルな男同士の絆にとどまらないものを見ようとする。実際、『こころ』を論じた大橋洋一の論文中の言葉を借りれば、この小説にはホモソーシャルな異性愛体制を「破綻させるような同性愛的欲望が回収されえぬまま漂流している」ようなのだ(『漱石研究』第六号、翰林書房、1996年)。
 このホモソーシャルではないホモセクシュアルな欲望を可視化するに際して、関根が採った手立てはいたってシンプルだ。ただ生身の男性俳優に小説中の場面を舞台で演じさせるだけである。たとえば、若き日の先生とKが連れ立って夏の房総半島を旅する場面を見てみよう。ふたりが崖の突端からその下に広がる海を覗き込んでいると、ふとKの背後に回った先生が彼の襟首をつかみ、「こうして海の中へ突き落としたらどうする」と尋ねる。Kは「ちょうどよい。やってくれ」と返答するのだが、このくだりは、そのまま若い男性俳優によって演じられるだけで濃密にホモエロティックな空気が舞台に立ち込める。薄い夏物の着物の前を大きくはだけ、崖のところで腹ばいになっている男ふたりが、首筋に腕を回して言葉を交し合っているのだから。
 ところが、同じ部分を活字で読んでみても、舞台で見るときほど突出したエロティシズムは感じられない。もちろん、それは目の前に生身の身体を突きつけられることと、文字から想像をふくらませねばならないこととの違いによるところが大きいのだろうが、この一節の直前で先生が語っている内容も読み手の意識に小さからぬ影響をおよぼしていよう。先生は「自分のそばにこうじっとして座っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思うことがよくありました」と遺書に書き、自分がKの襟首をつかんだときによぎった感情がKへの愛というよりは嫉妬であったかのように読者に思わせようとするのである。しかし、すでに述べたように、先生の語りを信用しなければならない理由はどこにもない。関根は余計な内面吐露の台詞を劇中の先生には与えないことで、つまり観客にふたりの行動だけを提示することで、まるで戯れに心中の相談をしているかのように見えるゲイ・カップルを舞台に出現させた。いわば「こころ」ではなく「からだ」を前景化させることで、ホモソーシャルな異性愛体制を破綻させかねないホモセクシュアルな欲望をくっきりと浮かび上がらせてみせたのである。
 そして、このようなホモエロティシズム、まだホモソーシャルな異性愛体制に回収されず、ミソジニーにもホモフォビアにも汚されていないホモセクシュアルな欲望を自ら身をもって肯定するためにこそ、先生はKの後を追って自殺したと関根は考える。つまり、先生が殉じた「明治の精神」とはゲイ・プライドのことだったと大胆な読み変えを行なうのだ。
 ただ、関根はさらにもうひとひねりを加える。この劇の幕切れ、いよいよ自殺を決行しようとしている明治の先生のもとに、現代の学生が突然やって来て、自殺の理由を尋ね、自殺を思い止まるように言うのである。わたしは、ここでつい苦笑をしてしまった。このように直接、現代の人物が過去の虚構の作中人物に話しかけることが作劇上、許されるのであれば、わざわざここまで2時間以上もの上演時間をかけて丁寧に話を進めてくる必要などないからだ。しかし同時に、深く心を動かされもした。好意を寄せるゼミの教員にあっさり「ぼく、ゲイなんです」と告白してしまえるこの学生は、意識の上では現在よりも少し先の時代にいる人物なのかもしれない。その彼が、ホモフォビアのはびこる時代を生きてきた(生きている?)同性愛者に向かって伝えようとする「死ぬな」というメッセージ。ウェルメイド劇の名手である関根が、あえて構成に綻びを入れてまで書き込んだこの台詞に、作劇の約束事が要求する制約に収まりきらない彼の肉声が聞こえるような気がしたのである。

【2024年2月の追記】
 最終段落で、自分は自殺を止めようとする学生の発言に「つい苦笑をしてしまった」と書いているが、本稿の執筆当時、関根の問題意識の切実さを汲み取れていなかったのだと思う。2015年、一橋大学の大学院生がアウティングによって自死にまで追い詰められる事件が起きたとき、ようやく自分はこの台詞に込められた意味を理解した。くわしく話を聞いたわけではないが、関根が身近な同性愛者の死を一度ならず目にしてきたであろうことは想像に難くない。彼はなんとしてでも先生に生きてほしかったのである。興味深いことに、ゲイを主人公にしたアメリカ演劇の大作『エンジェルズ・イン・アメリカ』も『インヘリタンス』も、結末に「生きよ」という台詞が置かれている。関根が『こころ、心、ココロ』をどんな言葉で締め括るかが楽しみだ。

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