別役実とハロルド・ピンター

 別役実がサミュエル・ベケットの強い影響下に劇作を始めたことは、日本の演劇界ではよく知られている。また、イギリスの現代演劇を少し学んだ者には、ハロルド・ピンターがベケットの影響を受けていたことは常識だ。では、別役へのピンターの影響はどうだったのだろうか。
 結論から言うと、ピンターは1970年代後半からの別役の作劇術に大きな影響を及ぼしている。ピンターを参照することがなかったならば、別役は彼自身が言うところの「ベケット離れ」を果たしえなかったかもしれない。しかし、別役の全著作をくまなく精査したわけでもないのだが、『ゴドーを待ちながら』の変奏である『料理昇降機』を除けば、彼はピンターの戯曲そのものにはさほど関心がなさそうなのである。別役が示唆を受けたのは、「劇場のために書くこと」と題されたピンターの講演録、なかでもとくに「演劇は大がかりで活気に富んだ公的活動です」という一節だ。
 ピンターが言わんとしたのは、劇作家の私的な営みである戯曲の執筆とはちがって、演劇活動となると、俳優や演出家、プロデューサー、観客といった広範囲の人びととの関わりが生まれてこざるをえないということだ。ピンターは、自分が執筆するときは作品以外の諸要素は考慮に入れないと述べているだけなのだが、別役は1981年の「ピンターの方法」(『ことばの創りかた』所収)という評論で、この言葉をピンター自身が込めた意図をも超えて深く掘り下げている。
 別役は、ベケットのような前衛劇作家は奔放に自分の私的な想像力を広げるあまり、舞台を成り立たせている世俗的な側面を等閑視しがちだと考える。これでは「大がかりで活気に富んだ」作品は生まれない。一方、アーノルド・ウェスカーのような(社会主義)リアリズムの劇作家は、私的な関心がそのまま社会の関心事につながると信じているように感じられるという。レストランでコックとして働いた経験をもとに、調理場を現代社会の縮図として提示する『調理場』はその好例だろう。別役の目には、こうした作劇法はあまりに素朴に映る。前衛的な独善にも、明快すぎる図式にも陥らない書き方が模索されねばならない。
 そこで別役がピンターに見出した方法は、日常の断片をリアルに描写しながらも、その断片を組み込んだ全体像は示さないというものだ。ありのままの現実が描かれるのだから、観客は抵抗なく舞台上の出来事を受け入れられるだろう。だが、そこから安直に一般化されたメッセージを引き出すことはできない。別役はこのような作劇法を、甲虫の一本の脚だけを丁寧に描いた絵になぞらえて「局部的リアリズム」と呼んだ。脚一本の細密画をいくら拡大したところで、あるいは何枚も集めたところで甲虫全体の姿は浮び上がってこない。各場面の台詞のやり取りはきわめてリアルなのに、全体を統一する明瞭な像を結ばない別役劇の特徴を的確に捉える言葉ではないか。
 さらに、別役は1987年刊行の『ベケットと「いじめ」』のなかで、再度ピンターの一節を引用し、演劇創作の作業のうちで劇作家が私的活動としてコントロールできるのはせいぜい20パーセントほどにすぎず、残りの80パーセントは方法論化が不可能な公的活動だとも述べている。戯曲の執筆にあたっては、この方法論化できない80パーセントの部分、別役自身の言い方を借りれば「ありものとしての演劇」をひとまず受け入れるところから始めようというのが彼の立場だ。これを別役の保守的な演劇伝統への回帰と見るべきなのか、それとも確立した自分の方法論を伝統で肉付けしようとする試みと見るべきなのかは容易には判断が下せない。ただ、演劇を演劇たらしめている前提すべてを疑ってかかることを戯曲執筆の出発点に置かなかったがゆえに、別役は生涯に140本を超える作品を残せたとは言えるだろう。ピンターの言葉との出会いが、別役の多作に一役買っていたのである。
 さて、そのピンターの『料理昇降機』をふまえた『ああ、それなのに、それなのに』が別役実の絶筆となった。副題に「注文の多い料理昇降機」とあるように、ピンターの戯曲に加えて宮沢賢治の童話が題材となっている。この作品については、すでにこの note松柏社のウェブマガジンに小文を書いたことがあるのだが、その後、再読して気づいたことをふたつばかり、以下に記しておきたい。
 ピンターの『料理昇降機』を注意深く読んでいると、主人公のベンとガスの台詞のやり取りにちょっとした引っかかりを感じるときがある。冒頭、87歳の老人が停車中のトラックの下をくぐって横断しようとして轢かれたという記事を見つけたベンに、ガスは「誰にそんなことをしろと言われたんだ?」と聞く。「どうして、そんなことをしたんだ?」ではない。まるで、人間は誰かに命令でもされないかぎり行動することはないと思い込んでいるかのようだ。ただ、こうした思考回路は、ふたりの職業が殺し屋であることを考えれば、納得がいく。ベンもガスも、上からの指示に忠実に従う人間なのである。行為に主体性がないから、責任も発生しない。人を殺しても、罪責を感じずに済む。
 別役の『ああ、それなのに、それなのに』の男1と男2にも、このような思考回路は引き継がれている。思わず男1に「馬鹿」と言ってしまった男2が失礼を詫びると、男1は次のように言う。「いいよ、誰かがお前さんにそう言わせたのかもしれないしね……」。この劇の殺し屋も、人間の振舞いを他人に操られた結果として見ているのである。ユダヤ系の出自を持ち、第二次大戦中に多感な少年期を送ったピンターが、「自分はただ命令に従っただけです」と口にできる殺人者を劇の主人公にした含意は明白だろう。一方、別役が描こうとしたのはピンターほどはっきりしないが、忖度が常態化した組織に属する人間の心性ではなかろうか。別役は『台詞の風景』のなかで、『料理昇降機』の殺し屋たちのことをサラリーマンのようだと評していた。
 あと、この劇で男1が男2に自分の死後も意思疎通ができると言い出すところが、いまひとつよくわからなかったのだが、今年(2022年)刊行された『別役実の風景』に収録されている喜多哲正の「別役実・もう一つの顔」を読んで、おぼろげながら解釈の手がかりがつかめたような気がした。喜多は、別役がベケットを意識していたのは言うまでもないが、宮沢賢治からの影響も過小評価してはならないと説く。『ああ、それなのに、それなのに』には、「注文の多い料理店」だけではなく、「ポラーノ広場」のイメージも借用されている。それならば、「銀河鉄道の夜」の主人公ふたりを、本作の男1と男2に重ねてみるのも許されよう。死んだカンパネルラの思いがジョバンニに届いたように、男1は自分の思念が男2に伝わると夢想している、と解釈するのはいささか感傷的すぎるだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?