別役実の描く二人組についてのノート

 別役実が亡くなって、この3月で1年になる。没後に刊行された『悲劇喜劇』『ユリイカ』の追悼号所載の年譜を見ていると、登場するのが男二人だけの戯曲で劇作を始めた別役が、絶筆でも二人組の男を主人公に据えているのが興味深い。別役がベケットを、それも『ゴドーを待ちながら』を強く意識していたことはひろく知られている。ウラジミールとエストラゴンに相当する男二人が、彼の戯曲に頻繁に登場したとしても、べつに不思議はないだろう。ただ、よく読んでみると、こうした別役劇の男の二人組は、たんに『ゴドーを待ちながら』から拝借してきたペアでもなさそうなのである。別役のすべての作品を視野に入れて詳細に論じる時間も力もないが、備忘もかねて、彼の描く二人組の特徴をここに素描しておこう。
 1961年に鈴木忠志の演出で上演された『AとBと一人の女』が、別役の劇作家としてのデビュー作である。幕が開くと、二人の男が椅子に腰かけているのが目に入る。分厚い本を読んでいるのが、この家の持主のAだ。彼の注意を引こうと、居候のBがしきりに話しかけるところから劇が始まる。BはAに劣等感を抱いており、AもBへの軽蔑を隠さない。この二人の男の言葉のやり取りは、突然、BがAを殺害することで終わる(タイトルにある「一人の女」は、幕切れに鳴る呼鈴の音で登場が暗示されるだけで、実際に舞台に姿を現わすことはない)。
 二人の登場人物が、AやBとしか呼ばれないほど個性が希薄である点に、ベケットの影響を読み取れなくもないが、この二人の関係は、ウラジミールとエストラゴンのそれとはずいぶん異質だろう。本を読んでいる男にもう一人の男が話しかけるという設定や、殺人で終わる結末など、むしろエドワード・オールビーの『動物園物語』のピーターとジェリーのペアに近い。1960年初演のオールビーの劇を、本作の執筆にあたって別役が参照したとは考えにくいが、とにかく彼が最初に自作の劇中に登場させたのが、相手を殺しかねない関係にある二人組だったことに注意しておきたい。
 AとBよりも、もう少しウラジミールとエストラゴンの風貌に似た二人組が出てくるのは、1962年初演の別役の出世作『象』だ。劇の本筋とは外れたところに登場する通行人の二人である。別役は、この二人の姿格好についてト書きにこう指示している。「両人とも背広、ネクタイ、ワイシャツをきて一応整ったみなりだが、どことなくくたびれた感じ。初老。ステッキを小脇に抱えている」。ステッキの代わりに山高帽を被らせれば、『ゴドーを待ちながら』の二人にそっくりだ。ただ注目すべきは、この二人が、おたがい見ず知らずの仲であるにもかかわらず、舞台に登場するとすぐに通行人1の方が通行人2をステッキで殴り殺してしまうことである。ステッキを振り上げる前に、通行人2に向かって通行人1は言う。「貴方も殺されたくなかったら闘わなければなりませんよ」。この劇の二人組もまた、別役は相手を殺しかねない関係として描いているのである。
 時代は一気に下るが、1987年初演の『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』でも、「殺さないと、殺されるからね」という台詞が口にされる。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を下敷きにした劇で、本作に登場する騎士1と騎士2はどちらも、生き延びるためには人を殺すことも辞さないという信念の持主である。上に引用した台詞は、牧師になぜ自分を殺そうとするのかと尋ねられたときの騎士2の答えだ。こうして二人は次々に人を殺してゆきながらも、同時に自分を殺してくれる誰かとめぐり合えるのをひそかに心待ちにしている。しかし、劇の終盤でついに二人の騎士が対峙することとなったとき、二人とも相手を殺すのを断念してしまう。おたがい殺し合ってもおかしくない関係であるのに実行しない。別役は、デビュー作や『象』の二人組とは少し違った関係の二人組を本作に登場させたのである。
 このような関係の変質を、どう捉えるべきだろうか。どうして自分を殺さないのかと騎士2に訊かれ、騎士1はこう答える。「生きることに飽きたとたん、殺そうという気もなくなった」。逆に言えば、これまでの騎士たちの見境のなき連続殺人は、生への執着の裏返しだったということである。たしかに、「殺さないと殺される」という物言いは弱肉強食の競争原理そのものだ。こうした人生の酷薄さのメタファーとしての殺人とは違ったモチーフを、別役は本作で提示しようとしたのではないか。二人の騎士を演じた三津田健と中村伸郎は、初演当時それぞれ85歳と79歳だった。別役自身もこの年、50歳になっている。他人を殺して生きることよりも、自分が死ぬことの方へと関心の力点が移ったとしてもおかしくはない。この劇は、騎士2の「だとすれば私たちは今、ゆっくり冬の方へ動いているんだ……」という死の匂いの濃い述懐を、二人して反芻するところで幕切れとなる。
 別役の絶筆となった『ああ、それなのに、それなのに』(2018年初演)でも、死が劇のモチーフの一つとなっている。副題に「注文の多い料理昇降機」とあるように、宮沢賢治の『注文の多い料理店』の世界の中へ、ハロルド・ピンターの『料理昇降機』の二人組を投げ込んだ作品だ。ピンターの劇では、この二人の殺し屋ベンとガスは、次の標的について上層部からの指示を待っているという設定で、反抗的なガスが次の標的に選ばれて幕が下りる。もともとはまさに相手を殺しかねない関係の二人組なのだが、別役の戯曲では、上述した二人の騎士の場合と同様、殺人が実行されることはない。男1は自分が次の標的だとうすうす気づいていながら、男2を出し抜こうとはせず、男2もむざむざ射殺の好機を無駄にする。
 面白いのは、自分が殺された後も男2と会話を続けられると、男1が考えていることだ。男1は、自分を殺せと命じたのが誰なのか突き止めてくれるよう男2に頼む。男2は、突き止めたところで、そのときはもう男1はここにはいないと応じるのだが、男1は眼前の虚空を指差ししつつ、こう答えるのである。「いるよ。きっと、このあたりにね。そして、お前さんに聞こえるように言うよ。ああ、そうだったのかってね」。パーキンソン病が悪化したため口述筆記で執筆された2014年の『背骨パキパキ「回転木馬」』の中でも、別役はモルナール・フェレンツの『リリオム』をふまえつつ、死者が生者と交わる場面を描いている。最晩年の別役は、死者の側に身を置いて、そこから生者に向けて発せられる言葉も自作に書き込んでいたのである。このような生者と死者の対話はあながち夢想ではあるまい。現にこうして、別役の没後も、われわれは彼の言葉をじっくりと噛み締めて味わっているのだから。

※ 昨年自分が松柏社のWEBマガジンに書いた「笑いを期待しながら──遅ればせながら別役実を悼む」と内容が重複する部分がある。


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