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[note67]学校つくり研究会で得たもの

待ちわびました!

3月9日に東京都私立中学高等学校協会による研究会に参加した。テーマは
学校教育とAI-ChatGPTなどのAIとの共存の仕方-」。今研究会のテーマは様々な教育現場でモヤモヤしているChatGPTをはじめとするAIの在り方について情報共有を通して、すっきりしていこうという趣旨であった。
実際には、良い意味でモヤモヤはより深くなったわけだが、こうした場において他校の先生方と情報を共有し、知見を深めることができる機会は貴重であるし、自分の刺激を与えてくれる場所だと思っている。

OST(Open Space Technology)から

恥ずかしながらOSTという手法を認識していなかった。研究会に参加する前に一応、調べてみると、以下のような説明があった。

初めに参加者自身が話したいテーマを設定する。会議の参加者はどのテーマに参加することも自由であり、必ずしも自分の設定したテーマに拘らず、他者が設定したテーマに関心を持った場合は自由に移動することができる。OSTは自主的に話し合いを行う手法で参加者の当事者意識を最大限に引き出すことにより、納得できる合意に到達するための手法である。

何だか、分かったような分からないような…。イメージが明確にならなうので、研究会の流れに乗ってみることにした。初めにChatGPTを含めたAIについて自分が関心を持っていて、誰かと議論をしたいテーマをボードに書き出す。そして、参加者の前でそのテーマを設定した理由を簡単に説明する。後は自由に各ボードを見ながら、自然に話したいテーマのところに集まった人々で議論を行うというのが基本的な流れだった。

「ChatGPTなどAIについて、皆さんの学校の先生方はどう受け止めていますか?」

これが私が設定したテーマである。
ChatGPTなどのAIは「何ができるか?または何ができないか?」「授業や教科指導でどのように使うか?」「業務の効率化の方法は?」などテクニカルな部分について関心が払われることが多い。もちろん、これらのテーマは自分にとっても極めて関心度が高く、様々な実践事例や活用方法などを聞きたい気持ちは常に持っている。ただ、今回はそもそも論として「学校現場でAIはどんな存在として受けいられているのか」を聞きたいと思い、このテーマを設定した。新しいものに対する一般的な捉え方の分類をすると①関心があり、積極的に活用している人②関心はあるが、優先度はまだ高くない人③さほど関心はなく、一時的なトレンドであると考える人④関心がなく、関わること自体を求めない人…という4つのパターンに分かれるように思う。
ここで一応断りを入れておくと、①~④のパターンの誰が優れていて、誰が問題があるという話ではなく、あくまでも一般論としての分類である。ただし、AIに関して言えば、あらゆる社会において不可避の存在になるという事実を認識する必要がある。だからこそ、AIを善悪二元論のように語るのではなく、その付き合い方を考えることを必須であると考えている

デジタルデバイスからデジタルデバイドへ?

不正確な表現であったら大変申し訳ないことであるが、同じグループで議論させていただいた先生が冒頭にお話ししていたフレーズがキャッチーで、大変印象の残った。コロナを経て、学校現場には急速にICTが導入された。GoogleなどのプラットフォームやZOOM、Teamsなどのオンラインツールなどがその代表である。いわゆるデジタルデバイスはこの5年余りで急速に学校現場において当たり前の存在となった。同時に、そうしたデバイスに長けている人、そうしたデバイスを苦手としている人の間にデバイド(隔たり)が生じているという事実も見過ごせないと感じている。学校現場におけるAIの存在はそうした教員間のデバイドをさらに拡大するのではないかという懸念であり、それは至極もっともなことだと思った。それを生徒にも同じことが言えるだろう。しかし、生徒のデジタルツールの理解度は教員のそれをはるかに凌駕するスピードであり、生徒間の学び合いによって、あっという間に教師は置いて行かれるかもしれない。

使わせるか、使わせないかではない現実

私の学生時代(より更に以前)から「学校は〇〇すべきか否か」という議論を常に抱えてきた。近年でいえば、学校にスマートフォンの持ち込みを認めるか否か…といったところだろうか。もちろん、あらゆるマルチツールとなったスマートフォンに対して、無条件で全面的に自由化をすれば、現場は混乱し、生徒問題を引き起こし、無秩序を生み出すことは懸念される。だからと言って、「臭いものに蓋をする」という発想で、生徒に持参させないということは、もはや現実的ではない。なぜなら、いくら禁止をしようが生徒は所持し、自宅に置き去りのスマートフォンなどあり得ないからだ。勿論、個々の学校の事情があることは承知しているが、「ある」ことを前提とした議論をすることが、これから先、より強く求められるのではないだろうか?

誰でも使える生成AI

AIについても同じことがいえる。以下の記事は3月6日の読売新聞からの引用である。簡単に言えば、生徒が課題をAIを活用して行った上に、それが誤っていたという問題だ。ChatGPTなどの生成AIについては、東京大学などがすでにガイドラインを出している。また文部科学省も学校における生成AIについての指針を示している。ただし、文科省の方は敢えて言えば、かなりあいまいな表現で、現場判断に委ねているように感じる。こうした問題は当初から懸念されていた。ChatGPTの故郷アメリカでも多くの大学で、この問題に対するガイドラインを示しているようだ。

現時点でOpenAIのChatGPTは利用に際し、年齢制限があるが、GoogleのGeminiやMicrosoftのBingなどは、ほぼ自由に使うことができる。つまり、AIはもはや誰もが簡単に使うことができるツールとなっているといえる。

私たちの考えるべきこと

グループワークの内容は多岐にわたったが帰結点としては「最終的に学校がAIを初めとしたテクノロジーに対して、どのような理念を持つか?」ということに尽きると思う。合法的に活用するレベルにおいて、重要なことは自校の理念(建学の精神)であろう。建学の精神は、どのような生徒を社会に送り出したいのか、そのためにどのような教育を目指していくのかを簡潔に示したものであり、大学で云うところの3つのポリシー(アドミッション・ディプロマ・カリキュラム)に近いものになる。理念は普遍的なものであり、可変的なものであると考えている。その学校が創設されたとき、その時代に生きた先人が思考を尽くして建学の精神を策定した。この精神は普遍的なものである。しかし、時代は変化する。その精神を基盤として、建学の精神を現在そして未来に向けてアップデートしていくことは、不可欠なことだ。理念に可変性があると感じるのはこうした点である。学校におけるそうしたポリシーはお題目ではない。それを掲げていれば、生徒が育つというものでもない。私達が、今、そして卒業後の未来を生きる生徒達に、伝統的な理念をどのような言葉で伝えていくかを考えることが欠かせない。この急速な社会変化において、それを怠ることは学校の衰退につながると考えるのは、少し行き過ぎだろうか?

個人事業主からチームへ

これは教師という職業の特性かも知れないが、自らのスキルを囲い込む傾向があるように思う。それは自分も例外ではなく、「自分が学んで自分が得たスキル」を活用することが教師としての差別化につながり、自己承認を得る手段となる。これに対して、同じグループで議論をさせていただいた先生は自分が得たスキルや知見を積極的に紹介し、授業も公開しているということだ。教師は得てして授業参観に対しては抵抗感を持つ。その気持ちは自分でもわかる。しかし。教師が自らのスキルや経験を自分の中だけにとどめておく限りにおいて、学校全体の力は上がっていかない。いわばオープンソースにすることによって結果的に自分も仲間も、より効率的に充実した教育活動を目指すことができるということなのだろう。社会は今、クローズな空間からオープンな空間に変化していると思う。オープンにすることは決して、自分の価値を下げることではなく、自分のスキルやマインドをより高みへと向かわせる契機となるのだと感じる。

次年度はどうする?

次年度はどうするだろう?
私はChatGPTをはじめとした生成AIについては、学校として何らかの方針を立てることを望みたいし、それに関わりたいと思っている。薬剤と同様にAIもベネフィットとリスクが混在する。自校の生徒達に、どこまでAIとお付き合いをさせるのか、「テクノロジーが好きな教員」任せではなく、世代、スキルレベルの混在したチームが、学校としてのスタンスのベースを形成し、教員間で共有することで学校としてのスタンスを示すことが可能になるはずだ。新たなテクノロジーに正解はまだない。テクノロジーに対する倫理的な問題など様々な哲学的な問いも含むものとなるだろう。だからこそ、多くの知恵を得て、私たちの理念の形成を目指したい。

最後に少し耳の痛い話

この話は賛否があることは承知の上で最後に私見を書きたいと思う。
やはり「教師は関わらなければならない」ということ。例えば、スマートフォンについて議論するときに、それを触ったことのない人が議論できるだろうか?LINEを使ったことがない人が、その利便性と危険性を判断できるだろうか?AIについて全く関心のない人が、この先の学校におけるAI・教師・生徒・教育の関係を考えることができるだろうか?
もちろん、だからと言って全てのテクノロジーと関わらなければ議論に参加できないと言いたいわけではない。「持たない」「使わない」というのは個々の教師の判断に委ねられるものかもしれない。重要なことは、それらに対する「感度」を下げないでいたいということだ。いつか、研究会で聞いた言葉は常に耳に残っている。

教師は評論家であってはならない!

二次的な情報に基づき、賛否を評論するだけでは、本来の議論にはたどり着かない。もちろん書籍やニュースなどで得た知見は重要である。評論家的なスタンスで客観的に物事を捉えることも場合によっては必要だろう。ただしあらゆる教育活動の根幹を議論する上でマルチな視点で物事の本質や理念を考えることができる姿勢を持っていたいと考えさせられた研究会だった。

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