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止められる。ということ#幸せをテーマに書いてみよう

幸福とは何か?
今回のテーマで書くにあたって、実は2本記事を無駄にした。企画発足時に手を挙げた段階で考えていたものも含めると、3本。

そしてこれが最後の一本。もうそろそろこれで終わりにしようと思う。今回はそれだけ、自分にとって向き合うことが難しいテーマだったのは、言うまでもない。企画者のあきらとさんが悩み、迷う気持ちもよく分かった。

私がここまで幸せについての記事を形にできなかった理由は、一つだ。
いかに綺麗に書こうとしても、いかに過去の記憶を呼び起こそうとも、何も変わらない自分が、そこにいたからだ。

どれだけ取り繕っても、変わらない。私は心のどこかで幸福論を全否定して背を向けていたからだ。

構想の上の最初の1本目は、簡単に言えば、幸せは誰かと分かち合ってはじめて生まれる。という、昔すごく影響された『into the wild』という映画の中の一言だ。金言である。至言である。そう思った。けど彼はそうならなかった。そうはならず、死の淵に瀕したときに、言った台詞だ。これでは、何の答えにもなっていないな、と思い筆を折った。それに恐らく私が筆をとるより、観た方が話が早いはずなので、辞めることにした。

2本目は、企画者あきらとさんの記事に答えようと思い書いた内容である。ごく一般的な幸福論(裕福とは言えずとも、経済的に安定していて、パートナーがいて、仕事があって、家族がいる)そこに行きつかない、あるいは全く想像もできない人間が、一般的な幸福論によって、ゴールのないマラソンを走らされている。それに対するアンチテーゼを作ろうとした。せっかくだからすこしだけ出す。
「幸せになりたいよね?」
そう思っていない人間、ってこの世の中にいるのだろうか?そのために何も努力をしていない人間って、いるのだろうか?
そんなことは圧倒的な前提のはずだ。なら、それを問うてくる人間が聞きだしたいことは、いったい何なのか?幸せになりたければ、黙って金を稼げ、あるかどうかもわからない将来の為に、今おのれを捨てて、全て我慢して、声を発さず、手を出さず、ルールと支配に従え。そういいたいだけなのか。これを書いていて、分かった。たぶん私は、そういうカウンセリングを受けたとして、そういう優しさを受け、ショートケーキを差し出されたとして、その手の甲にフォークを突き立てることを考える種類の人間だ。
生きることの大前提は身体の隅から隅まで行き渡っている。知っている。理解している。生きることは、他者から奪い取ることだ。
だけどそこまでだった。その先の幸せなど、全くもって提示することが出来なかった。答えになっていないし、答えられてもいない話だ。結論の出ない話など、すべきではない。これも辞めることにした。

3本目、これが最もしんどかった。大事な人と、家族と、あえて距離を取ることで、その人たちの幸せを作ろうという話だ。これを書いた時点で、猛烈に実感したことは、もうここまで読んでいる方々にとっては、お分かりだろう。
この人は、社会に、あるいは自分の周囲の人間関係に、家族に、愛するという事だけでは全く足りないほどの、真黒な憎しみを持っている。

マヌケな話であると思う。自分のより良い姿、幸福に満ちた日々、未来を考えているうちに、最も悪意に満ち満ちた修羅と向き合う羽目になったのである。実際、私は家族に絶対に言い出せない一種の後ろ向きな考えを持っている。そのことに、気づいてしまった。今までの言動、態度、そのすべてが、恐らくその考えによるものだとして、全て説明をつけることが出来てしまった。そして、最後の一文が全く気に食わない代物となってしまった。
あえて、会わないという事、彼らの幸せを願い、身を引くという事。本当にそんなことを望んでいるのか?
だがもしそれを、吐き出したとしたら。どうなる?
もういい、もう分かった。だからもう少しだけ、嘘をつき続けさせて欲しい。修羅が収まるまで。
幸福論に向き合う、ということは自分の中にある、悪意と向き合うことと同意だった。思い知った。幸せとはかけ離れすぎているこの記事を、私は封印することにした。

終局。これで結論にしようと思う。
私にとっての幸せとは、3本も封印したその行動が全てだ。何もしない。このことが許されうるこの状況こそが、幸せなのだ。
人を拳で殴る、ナイフを振りかざす、言葉の暴力で他人を追い詰める。物を破壊する。
昔の自分はそれを自制することが出来なかった。にもかかわらず法の枠を踏み外さなかったのは、もう顔も思い出せないが、それを止めた人がいたからだ。今はいない。
代わりに今、近しい人もいない。仕事をして、夜、誰とも話さずに眠りに落ち、朝を迎える。悪意を掘り起こそうとする人間がいなければ、持つ必要はないのだ。

最後に、この話をして終わる。
ある男が、自動販売機を破壊しようとしていた。きっかけは簡単な話で、硬貨がいくら入れても戻ってくる、たったそれだけだ。だが男は、自分を完全否定された、そう思い込んで、金槌を買って戻り、自動販売機に向かって振り上げた。
「その自動販売機、壊れてるよ」
一人の少年が男に声をかけた。男は正気を取り戻し、少年に礼を言った。
その一言だけで、ことは済んだ。
既に壊れているものを、あえて粉々に破壊する必要はなかった。そして、男がそれをする理由もなかった。
男は改めて少年に感謝した。
「ありがとう、私は、君が居なければ、私自身を壊すところだった」
少年はもう居なかった。男は、夕暮れの公園で沢山の人々が幸せそうに過ごしている光景を目に焼き付けた。
壊れているかもしれないが、世界は醜いばかりではないのだと。

*あとがき

あきらとさんの企画をもとに書かせていただきました。企画、小冊子企画楽しみにしております。
前回の企画から、今回は一つ、やり方を変えています。他の参加者の記事を読んでから書き始めました。皆さんの幸せに対する考え方、日常の小さな幸せをあえて知りに行きました。
結果、そこに至らない自分を見つめなおすことが出来た、良い機会であったように思います。やはりテーマとは少しずれているかもしれませんが、書き手の一人として、今できる最上級として、この企画を通して皆が何かしらの答えを出せるようになることを、心よりお祈り申し上げます。

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薄情屋遊冶郎
サポートはお任せ致します。とりあえず時々吠えているので、石でも積んでくれたら良い。