光の啓示「第2章 ドリームキラー?!」
こんにちは、Takayuki Hibinoと申します。現在は世界初の新技法「ホログラムズコラージュ」のパイオニアとして活動しています。定期購読マガジン「光の啓示」では、1989年の夏、私がアート活動を始めたきっかけになった光の啓示から現在に至るまでの経験や出来事を記憶にある限り綴っていく実話です。
自伝”光の啓示” 第2章 稲妻が!のつづき ドリームキラー?!
さっそく、翌日に画材ショップへ、
絵を描くために必要なものをゲットするためだ。
エアブラシ・ツール一式、絵の具やキャンバス、ボード、
下地、技法書や画集、VHSのビデオ講座など、
龍を描くためのものはすべて必要なものを購入。
今では全国各地にエアブラシ教室はあるが、当時はまったくない時代。
習うためには遠方まで足を運ばなければいけないが、
そんな時間はない。
教室に習いに行くことを断念、こうなりゃ独学で始めるしかないのだ。
龍を描くためのすべての準備ができた私は、
技法書やビデオを先生に毎日エアブラシ描く練習をした。
来る日も来る日も、
エアブラシの技法書やビデオ講座を何度も見て、
毎日練習を続けたのだった。
そうしたある日、私の帰国を知った友人たちが遊びに来るようになった、
友人たちは私が旅からもどると異国の話を聞くのを楽しみにしていて、
それを聞きに遊びに来るのが習慣だったからだ。
しかし、旅の話をそっちのけで、エアブラシで絵を描く練習をもくもくとしているわたしをみて友人たちの反応は、
なに始めたの?と興味しんしん。
そこでその友人たちに、
これからアーティストになることを宣言。
もちろん、光の啓示のことは一切話さない。
そのとたん、友人全員
「どうしちゃったの?タカちゃん」、
「そんなの無理でしょ。」とか、
「アーティスト?そんなのなれるわけないし、なに夢みてんの」とか、
「趣味で絵を描くならわかるけどね、それで生活は無理っしょ。」とか、
「美術の勉強したことないじゃん、やめときなよ。」とか、
否定的な答えばかり。
親友のA氏については
A氏:タカちゃん、アートで食べている人が周りにいる?
いないでしょ、
美大や芸大を卒業してもアートだけでやっていくのは難しいのに、
どうやって食べていくの?
もう29でしょ、バリにいっておかしくなってない。
今からなんてぜったい無理じゃん!
やめときなよ。
ちーーん。
そうです。
みんなが言うとおりで、その意見はまさに正論です。
私は返す言葉もない。
グーのねもでない・・・・・・。
私でも、いままでアートのアの字も言葉にしたことがない、
まったくアートを知らない友人が、
バリ島から帰ってきて、
絵を描きだして「これで一生行く!」なんて言われたら、
私でも全力で止めるだろう。
「絶対、ムリだからやめな!」・・・・・と。
これが今でいうドリームキラーというものか、
みんないままでの私でいてほしいのだろう。
私を心配してくれて言っているのだ。
さすがにそのきっかけになった、
あの光の啓示の出来事のことは、話なすことはできなかった。
みし、それを話したら間違いなく、
壊れたと思われることは、間違いないからだ・・・・・。
しかし、話さなくても同じだった。
その日から友人たちは、
「タカちゃん、バリ島にいってとうとうアタマいちゃったみたいだよ。」、
「タカちゃん、壊れちゃったからいまは近付かないほうがいいよ。」
もろもろの悲しいうわさが広まり、
私がおかしくなったと思いこみ、
友人たちの足は次第に遠のいて、いったのだった。
しかし、
だだ1人だけ応援する人がいた。
帰国してから私のことを、
何も言わず見守ってくれている人だ。
今思えば、その人のおかげでエアブラシに集中して、
絵を描く練習に取り組めたかもしれない。
孤独になりながらその後も、
毎日休まず絵を描く練習をした。
たった1人でも応援してくれる人がいる・・・。
それがどれだけ心の支えになったことだろう。
放浪癖の私がどこへも行かず、
その人のおかげで帰国してからもくもくと
絵を描く練習を続けることができた。
そして、バリ島から帰国して1年過ぎたころ。
描くことも楽しくなってきた。
龍が思うように描けるようになってきたからだ。
そりゃ、365日休まず絵を描く練習をやり続ければ、
だれでもうまくなるだろう。
よし、これでいける
そう自分に言い聞かせ、
また、もくもくと龍を描くのでした。
つづく
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