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6.サッカー指導者になるキッカケ|キャッチ|

美しき大学時代と書きましたが、美しくとも何ともありませんでした笑。大学へは、両親が兄には反対していた原付での往復。大学の講義が終わり、サッカー部の練習が終わるとサッと帰り、自宅からは全くといって良いほど外へは、でない生活を送ってました。その要因としては「ギャップイヤー」時代に得た情報でパソコンが今後必要になるし、インターネット時代に入るなどキャッチしていた私は。当時、学生の分際でVAIOのデスクトップを買ってもらいダイアルアップ回線「ピーゴロゴロ〜」って繋がるネット環境をゲットしました。情報量過多の学生の座を既に手に入れていました。今は、こうやってカナダにいてnoteを書きアップできるし、ビデオ通話を使い大事な人達にも会えるし、SNSを使えば無限です(危険もありますが)。誰とでも・どこにいても繋がれる時代になりました(電子機器+wifiさえあれば)。そのお陰で、他地域の情報も掴めることになりました。

大学2年の夏、埼玉県でサッカー「C級コーチライセンス講習会」(旧:サッカー準指導員)を宿泊形式で受講しました。書くのを忘れましたが、この前年にサッカー「D級コーチライセンス講習会」(旧:サッカー少年少女指導員)を取得してました。大学サッカー部の夏合宿を被ってましたが、自分のやりたい事を優先するという最悪な選手だったと思います。しかし、ここで縁が繋がりました。若かったため、受講生の方やたインストラクターの方にも可愛がってもらえ沢山のことを教えてくれました。"若さは武器"ですね笑。そして、インストラクターの方に「新井、大学卒業したらどうするの?」私は即行「サッカー指導者になりたいです」、返って来た答えは「じゃあ、うちでバイトすれば」と、私はそれを完全、鵜呑みにして大学の授業の一環であった「社会体育実習」を使いそこへ実習へと行きました。その後、私がプロサッカー指導者へなったクラブ「浦和レッドダイヤモンズ」でした。

「社会体育実習」は基本、大原サッカー場でアカデミー(Jrユース・ユース)のチームのサポートをしていました。時間帯によっては、トップチームも同じグランドを使っていたので練習も観れたりなどなど。そんなサッカー指導者に恵まれた環境も実習期間が終わり、終了しました。そして"あの言葉"をいただきました「これから、どうするの?」私、秒で「ここに、きたいです」笑。そして、サッカー指導の機会を掴みました。即、大学サッカー部も辞め浦和へ通う準備へ取りかかりました。その後、週末は勝浦→浦和→勝浦へ戻る生活が始まりました。交通機関は車でした…。

最後まで、読んで頂きありがとうございました。
私の結婚式、来賓スピーチ「お前、本当に来るとは思わなかったよ!」と最高の一言をインストラクターの方から頂きました!!
あなたのキッカケになれば幸いです。
Have fun.

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