LCL5回目「米国ハイテックハイの授業デザインー深い学びの実現に向けて」のふりかえり。

LCL5回目「米国ハイテックハイの授業デザインー深い学びの実現に向けて」のふりかえり。
https://xtanqlcl.kotaenonai.org/news/2072/

んー、なかなか時間がなくて、言葉を練れないでいます!こんなことを考えています。

①本日一番刺さったもの、衝撃のあったものを教えてください。
「深い学びの条件はなにか」という問い方がとても面白かった。どうしてもいつも、「どうやって〇〇のスキルを身に着けさせるか」という問いによって学びを計画してしまう。内容を与えるのではなくて、よい環境を整えて、「待つ」のが探究型の学びを中心に学校を設計する方法だと思った。全員が全員同様の環境があれば同じ結果が出力されるというものではなくて、そこでは環境と学習者の相互作用によって、多様に変化するだろう。しかし、より豊かな活動が生まれうるように、環境を複雑化し、多様化し、「耕す」ことが必要だと思った。

②本日持ち帰るあなたの学びについて教えてください。
リベラトリーなPBLは複数の要素の関わり合いの中で成立する、という話について、「資質・能力」とは学びが始まる前のレディネスについて、いうものか、それともプロジェクトを経た目的を指すのか、とジョン先生に質問した。答えは学校教育の全体を通じて身に付けさせたい資質・能力である、というものだった。どうも凡庸な質問になってしまったが、私にとってはおもしろかった。ふたつ理由がある。①全体的なモデルデザインの前提となる設計スタンスが、未来志向であること。日本だと、実現可能性から出発する(習得結果の平等を重視する)のに対して、どういう力をつけたいのか、というねがい(できるかどうかは措いて、やってみる機会の平等)に基づいて考えられていくのだと思われたから。②学校教育全体を通じて身に付けさせたい力、というのが良いと思った。日本では、学校段階ごとに学びが分断されているから、そして学校間で対話などなく、一校主義で学びをデザインするし、単年度で(「特色」ある)学校計画を考えさせるので、ロングスパンの資質能力開発・涵養などという視点は脱落して(テストで測れる)「確かな学力」に傾斜してしまうのだ。欠陥住宅のようなものだ。

③現在自分が格闘する問いについて教えて下さい。
僕はどんな探究支援をすることが社会貢献になるか。探究にとって評価とはなにか、という問いと結びついているのだが、評価というのはふたつある。本人の学びにとって必要な内在(主体)的評価(アセスメント)と、選抜試験を筆頭に、外的に第三者から比較衡量され価値づけられる外在(客体・対象)的評価(グレーディング)とがある。従来(HTHでさえ)、これらは他者が本人を評価する=学習者は他者によって評価されるというように静的で単純なモデルによってしか認識されていないが、これらのモデルでは評価のもつ動性や政治性をも含む機微を掴みそこなっている。総合型選抜試験における口頭試問のような例を想起してほしい。「自分の取り組みを活動の事後において回顧的にまなざしながら「編集」し、アラインメントを整えて、物語化し、より内的な必然性があるもの、サイクルを重ねながら未来におけるより有意義な達成を予感させるものであるかのようにアピールする、それを評価者が説得されながら値踏みしていく」のも「評価」だ。こういう価値標示的な学習者主体の被評価戦略を支援したいと思っている。

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