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自#120|勢津子おばさんの青春物語~その13~(自由note)

 勢津子さんが経験した、第四高女時代の行事や課題について、補足しておきます。ひとつは、毎年、秋に行われた食品品評会。これは、1年生から5年生まで、全員で、割り当てられた食品を一個だけ学校に持って来ます。生徒が持って来た食品を使って、たとえば、大根でしたら、よい大根の選び方、大根の効果的な使い方、保存法などを研究発表し、実地に勉強をします。カリン糖を作ったり、おせんべいに塗って乾くと白くなる砂糖蜜の作り方の実演などもあります。砂糖蜜に酢を少々入れると、アシが出て白くなると云う説明があります。これは、砂糖蜜が酢の刺激で、結晶型に戻り、フォンダン(fondant)、つまり糖衣の状態になると云う意味です。銀座の千疋屋まで行って、一個二円のレッドデリシャスを買って来て出品した同級生の生徒もいます。通常のリンゴが、一個、二銭くらいですから、200倍の値段です。たった一日ですが、一度に大量の情報・知識を獲得する(家事的な観点に立つと)非常に有意義なイベントだったと想像できます。

 4年と5年の夏休みには、リサイクルの宿題が出たそうです。これは、不要品や廃品をアレンジして、再び活用できる品物を作る宿題です。古い布をしぼり染めにして、鏡台掛けを作ったり、ヘチマをプレスして、手作りの花緒をつけて草履を拵えたりするわけです。

 4年生の時、勢津子さんは、自宅の庭に植えてあるユッカ(君が代蘭)の葉を取って、炭酸ソーダーで煮て繊維を取り出し、その繊維を赤や黄色に染めて、出品します。この繊維で洋服も作れる、スフ(レーヨンを刻んで紡いだもの)の代用になると云うことで、評判になったそうです。5年生の夏休みは、落花生の殻をつぶして、牛乳のカゼインで固めて、壁材料にする新建材を提出します。

 このリサイクル展覧会で、人目に留まったものは、東京府中等学校生徒発明展覧会に出品されます。勢津子さんの作品は、2年連続で展覧会に出品されて、知事賞をもらいます。4年時のユッカの繊維の時は、朝日新聞の三多摩版の記者が取材に来て、インタビューを受け、写真も撮って、翌日の新聞に掲載されたようです。親に知られたら大変だと、心配したそうですが、勢津子さんの自宅は世田谷ですから、三多摩版の記事は、掲載されず、バレなかったようです。入賞した生徒は、後日、学校の講堂で実施される全校集会の時、学校長から賞状と賞品(鉛筆1ダース)をもらいます。勢津子さんは、もらった賞状を、帰宅の途中、吉祥寺の井の頭線のくず箱に捨てたそうです。「こんなことに、うつつを抜かして、そんな暇があるなら、家事を手伝いなさい」と、母親に叱られることを怖れたからです。勢津子さんは、理科や数学が得意だし、好きなんですが、それは、母親にはまったく認められず、「人間のクズと云うのは、そういう人を言うのだ」と、母親には全否定されていたようです。今ですと、少女時代に、こういう扱いを受けた女性は、30代、40代のどこかで、普通にウツになると思いますが、そこは、戦前の少女ですから、今の若い子のような豆腐メンタルではなく、それなりにしなやかで、強靱な鋼(はがね)メンタルだったわけです。

 入賞して、知事賞をもらったことは別として、高女時代に勢津子さんが成し遂げた、もっともcreativeな仕事は、ユッカの繊維と落花生の壁材料だったと思われます。勢津子さんの人生の方向性が、この二つの作品で決定したと云う風にも、読み取れます。

 他に行く学校がなくて、限りなく不本意な入学だった訳ですが、日本女子大の中で、コースを選ぶとすれば、勢津子さんにとっては、やはり家政学部の二類しかなかったわけです。家政学部は一類、二類、三類と分かれています。一類は、創立当時からの家政学部。二類は、昔の師範家政と理科をコラボしたもの。三類は、社会事業学部の流れを組んでいたそうです。一類と二塁の違いは、二類は中等学校教員免許証が取得できると云うことです。同じ4年間、同じ学校に行って、片方は免許がない、片方にはあるのに、なんでない方に行く人がいるんだろうと、勢津子さんの母親は、不思議がったそうです。勢津子さんは、「それは貧乏人の発想であって、一類に娘を通わせている家庭では、免許証のことなど、まったく念頭に置いてない」と、書いています。

「一類に通っているのは、地方の豪農、大地主、豪商、都会の自営業など、お金持ちの子女で、一生、働かなくても食べて行ける人たち。二類の方は、大企業のサラリーマン、官僚、軍人、学者、開業医、教育者と云うように、堅実と言えば堅実でしょうが、まあ、どちらかと言えば、財政状態が少々、と云うところの家庭が多かったように思います」と説明しています。

 二類は、何かにつけて文部省の干渉を受けることが多く、日本女子大特有の教育、すなわち創立者成瀬先生の精神を伝えるのには不向き。一類こそが、安心して、思うような教育ができると云う状況だったようです。つまり、家政学部の一類こそが、日本女子大のカーストNo1の看板だったわけです。一類には、ほれぼれとするような美人が多く、お嫁入り先も、二類を出た人より、裕福な家庭が多いようですと、勢津子さんは、書いています。太平洋戦争後、GHQが乗り込んで来て、軍隊を消滅させ、財閥を解体し、農地改革で、地主たちは土地を失いました。ですから、ファミリーが没落した卒業生も多い筈ですが、同窓会で集まると、いまだに、一類の人たちは、一類の気風があり、一見して一類は一類、二類は二類と云う風に区別がつくそうです。これも、まあ、三つ子の魂、百までもと云う奴なのかもしれません。カースト違いの一類と二類ですが、仲はいいそうです。それは、縦の会、横の会、部会、クラブなどの、時間つぶしのイライラの原因だった会合のお陰だと、勢津子さんは述懐しています。

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