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自#013|いい仕事をすることによって、社会に貢献して下されば、それが恩を返したことになります(自由note)

 最初に赴任した足立区のA高校に勤めていた頃、お世話になったO先生から、句集が送られて来ました。O先生は、A高校では教頭職で、次に赴任した板橋区のO高校には、校長として栄転されました。A高校で、俳句をお作りになっていたので、O高校でも、俳句の会を立ち上げられ、O高校を離れた後も、定期的に句会を続け、おそらく御一人で苦労して、手作りの句集をお作りになっているんだろうと想像しています。

 O先生には、A高校時代、ひとかたならぬお世話になりました。35年間の教職生活を通して、もっとも尊敬している先生です。O先生は、教頭で、私は教師になったばかりの新米教師でしたが、管理職と管理される平教員と云った付き合いでは、勿論、ありません。O先生は、面倒見のいい大先輩でした。私は、新米教師でしたが、新米教師とは、到底、思えないくらい、傲岸不遜で、学校のボス(昔はそういう先生がいました)にも、堂々と平気で、楯を突いていました。学校のボスを敵に回しているので、当然のことながら、学校では浮き上がっていました。

 私が、一番、やりたかったことは、音楽村と云うバンドの部活の生徒の面倒を見ることです。これが、優先順位の一番で、エネルギーも時間も労力も、部活のために使いました。バンドの部活に不良がいるとは、その頃も思ってませんでしたが、停学(正確に云うと謹慎)になる生徒は、いくらでもいました。部活は、まあいろいろありました。O先生が、陰で助けて下さっているのは、理解していました。私の職員室の机の上とか、もう混乱の極みって感じでゴタゴタしているんですが、O先生は、定期的に片付けて下さっていました。最後、離任式で、A高校を去る時、私の部活のやんちゃな問題児たちの名前を、ひとりひとり上げて、褒めて下さいました。ものすごく、嬉しかったです。O先生は、私を信じてくれていました。私を信じているので、私が信じている生徒たちのことも信じてくれているんです。管理職として、お付き合いしたつもりは、まったくなかったんですが、すばらしい非の打ち所のない管理職でした。管理職であろうと、平教員であろうと、結局の所、人を信じられないと、いい仕事はできません。

 私はその後、北区の定時制高校に赴任し、その後、小平市、中野市、調布市の高校と、移動して行ったんですが、どこの高校に行っても、O先生は、私が全力投球で、いい仕事をしていると信じて下さっていました。

 But、Although、nevertheless、O先生が信じて下さっているほど、私は全力投球で、教職世界を駈け抜けて来たわけではありません。A高校から、定時制高校に赴任して、ある一定レベルの仕事しかできないと、限界を感じました。生徒が抱えている問題が、多様で、深すぎるんです。まだ、30代で、体力もエネルギーもあった筈ですが、全力投球をすると、自分自身がつぶれると、冷静に判断しました。できることを、自分のメンタルがつぶれないレベルで、頑張ってやる。とにかく、大きな声を出して、生徒を元気づけ、頑張ってるフリも見せる、まあそんな風な、小狡い戦術だったように気がします。

 多摩地区の全日制のK高校に赴任して、定時制ほど生徒の指導は、大変ではなかったので、1年目、全力疾走で、駈け抜けました。すると、2年目の夏、肺炎で倒れました。基本、病院には行かない人間ですが、40度以上の高熱が下がらず、三楽病院に行くと、即座にその場で、入院させられました。K高校には、軽音部はなく、ヒップホップ系の生徒の面倒を見ていました。文化祭ではクラブをやり、ダンス部を立ち上げ、まあ、充実していて楽しかったんですが、バンドの部活で蓄えたノウハウは使えないので、いろいろと非効率的に動いて、空回りしていたとこも、きっといっぱいあったと思います。

 中野区のS高校に赴任して、軽音部の顧問に戻ったので、またもや全力疾走して、赴任した年の夏に、肺炎で倒れました。入院はせず、自宅療養しました。CDを500枚以上は聞きました。本は好きですが、熱が高いと、やっぱり本よりも音楽の方が、楽です。呼吸困難に陥った時もありました。認めたくないことですが、呼吸困難になった時に、もっとも心身を穏やかにしてくれるのは、それは、モーツアルトです。

 調布市のJ高校では、バンドの部活を立ち上げました。立ち上げの頃は、苦労しましたが、ある程度、軌道に乗ってからは、優先順位をつけて、手を抜きまくりました。手を抜かないと肺炎で倒れます。手は抜いていた筈なのに、肺炎で倒れました。冬場です。三楽病院に入院して、音楽祭の実行委員長だったMさん(部活の部長でした)に、毎晩、病院から電話をかけて指示を出していました。肺炎になる前に、インフルエンザに罹りました。リレンザと云う薬を飲んで、インフルエンザは、治したんですが、リレンザが強すぎて、身体のバランスが崩れ、結局、肺炎を併発してしまいました。

 35年の教員人生を通して、ずっと全力疾走で駈け抜けて、いい仕事をして来た筈だと信じて下さっているO先生は、去年の7月、千葉のお住まいから、私が勤めているJ高校まで、私に会いに来て下さいました。リュックサックと、手提げ袋には、ダイコンやジャガイモなどの野菜がいっぱい入っていて、それが私へのお土産でした。O先生は、私よりもひと回り以上、歳上です。

 O先生にお会いして「適当に、手を抜きながら、要領良く、ずっとやって来ました。じゃないと体力的に無理なので」と、正直に伝えました。額面通りには受け取ってもらえず、最後の最後まで、全力疾走で、駈け抜けて来たと、O先生は信じて下さっていました。

 大恩あるO先生に、私は、何ひとつお返しをしていません。このブログを、O先生が読んで、喜んで下さるだろうと云った、あざといことは、勿論、考えてません。O先生は、ネットには絶対に行きません。そこは、確信できています。だから、ブログで、O先生のことを書いているんです。

 県庁時代にお世話になった、A先輩、私の世界史の恩師のS先生、中学時代のM先生、誰にも私は、自分の受けた恩を返してません。恩知らずの人間だと言われても、やむえません。が、恩知らずではありません。受けた恩を返してないだけのことです。

 私は、先生や先輩にお世話になり、その受けた恩は、教師として、私なりにいい仕事をすることで、返したつもりです。返し切れてないかもしれませんが、体力の許す限り、せいいっぱいやり切ったとは思っています。

 私も、教え子たちに、それなりに何かをしてあげたのかもしれませんが、私に恩を返す必要など、まったくないです。もし、借りた恩があると思っているんだったら、いい仕事をすることによって、社会に貢献して下されば、それが恩を返したことになります。

 教え子たちが、自分らしさを大切にして、いい仕事をする姿を、できる限り、見届けたいと云う欲もあります。ですから、ここで、易々とコロナで倒れるわけには行かないと、思っています。ささやかですが、筋トレも始めて、免疫力も、upさせています。

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